出来損ない系主婦に立ちはだかるヤマメからの挑戦状
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パナ子(ライティング実践教室)
帰りの車内で、あらゆる事をそつなくこなす夫が笑いながら言った。
「まあ、結局俺がやることになるんでしょ?」
その一言に、ポンコツとはいえ一応『主婦歴10年』という肩書を持つ私の心に火がついた。
「いや! 私がやる! 大丈夫でしょ!!」
夫の提案で、日曜日のレジャーの行き先に選んだのはヤマメの釣り堀だった。夫が「みんなでここに行かない?」と誘ってくれた時、「ふーん、まあ、いいんじゃない?」などと当初、高飛車な態度で対応した己をビンタしたくなるくらいに、心底楽しく我を忘れてはしゃいだ。
釣り堀といっても浅瀬のプールに放してあるヤマメをつかみ取りするスタイルだ。
最初のうち、子供たちが真っ青に晴れ渡る空の下、必死に魚を追いかけている姿が尊く、私はカメラマンに徹した。「あぁ! 逃げた~!」とか「魚、はやいよぉ!」などと大声ではしゃぎながら半ズボンがびしょびしょに濡れているのも気づかず夢中だ。
満足するまで写真を撮ったら、今度は私も履いていたジーパンを膝小僧までまくり上げ、本気の闘いに挑むことにした。しかしまあ、ヤマメたちの逃げ足の速いこと。(簡単っしょ!)と高を括っていた10分前までの私をあざ笑うかのように、ヤマメが足元をスー――ッと逃げていく。手づかみする気満々でいたのだが、どうにもこうにもゲットできる未来予想図が頭に浮かばない。私はついに最終兵器のデカ網を手にする。どうにかこうにか隅に追いやったヤマメを網ですくい上げることに成功した。そこらへんの子供たちより、はるかに大きな声を張り上げ、対角線上にいた夫に報告したのであった。
「捕ったーーーーーーーーっっっ!!!!!」
そこまではよかった。
問題はその後だった。
お天気のよい日曜日ということもあり、釣り堀の受付カウンターは非常に混雑していた。今から釣り堀に向かう者、釣ったヤマメを持って並ぶ者、なかなかの列が出来ている。ヤマメが入ったバケツを持ち、並んでいる夫がソワソワしだした。実は、万年激務男である夫はこの後新幹線に乗り、他県での仕事に前乗りすることが決まっているのだ。
ヤマメの塩焼きをおやつに食べて帰ろうと言っていたのだが、なんと混雑のため焼き上がりに50分かかるという。ごごご、五十分!?
非常に厳しい。ヤマメを今から焼いていたら新幹線にギリギリ間に合わないかもしれない。私は思い切って夫に声を掛けた。
「間に合わないでしょ? 丸ごと持って帰ってうちで焼こう」
結局、氷を入れた袋にヤマメを4匹入れて家まで連れて帰る事になったのだった。
なぜ、私が、思い切る必要があったのか。
出来損ない主婦代表の私は、これまでの人生、魚をさばいた事がほとんど無かったからだ。なんと、お恥ずかしい!!
便利な時代なもので、スーパーに行けば切り身が売っているし、カタログ注文の生協でも「この商品は内臓を取り除いてあります」などと懇切丁寧な対応である。これまでの私は迷わず切り身を選択し、丸ごと焼くとすると内臓を取らなくてもイケるサンマのみであったのだ。
しかし、それでいいと思っていたかと言えば怪しく、その証拠にスーパーや市場のような場所で吟味しながら魚を丸ごと買っていく主婦を目の当たりにすると(く……玄人!!)と勝手に劣等感を感じずにはいられない。向こうはこちらなんて気にも留めていないというのに。
いつか私も魚をさばく日が来るのだろうか、と思いつつ十年が経った。月日の流れはとんでもなく早い。
受付カウンターの時はまだ何となく(私がやることになるのかな……)などと少々怯えていたのだが、冒頭のように「俺がやることになるよね?」と言われた時、心は決まった。
私にだって、やれない事はないでしょうよ! かかってこい! ヤマメ4匹!!
というわけで、帰宅後すぐに持ち帰ったヤマメをさばく。
自分でやると言い出した妻に少々驚きを隠せない夫は、出張の荷造りをしながら時折台所を覗きにくる。ポンコツ主婦の包丁は切れ味が悪いのか、なかなか魚の腹に包丁が入らない。見兼ねた夫が「ちょっと貸して」と包丁を奪い、腹にスーッと切れ目を入れていく。おぬしが使う時の包丁と、我が使う時の包丁は同じであるよな!?
疑問に感じながらも、夫の監視のもと、慣れない手さばきで包丁を握り直す。ギーコギーコ、なんだか下手なバイオリンの調べが聴こえてきそうな手つきではあったが、なんとか腹に包丁が入った。刃先をググっと奥に入れて内臓が全部出しやすいようにする。本みたいに左右に開くことができるようになると水道水でジャーッと流しながら内臓を手で掻き出していく。何とか一匹目の処理が終わった。
玄人主婦が週に何度もやっていそうな事ではあるが、ほぼ経験の無い私からしたらとてつもない達成感である。
やった……できた……!
ひとりで、できたもん!!!!!
ニマニマとした気持ち悪い笑顔をさらしながら、その後は兄弟たちと一緒に作業をする。途中舌足らずの次男5才が「かわいつぉ~。おさかなさん、ころすの?」と聞いてくる。なんていい機会なんだと思いつつ私はこう答える。「そうだね。でもね、いつも食べてるお肉もお魚もこうやって命をいただいてるんだよ。感謝しなきゃね」
突然の食育ができたのもヤマメたちのおかげである。
釣り堀から持ち帰ったレシピには塩焼きに並び、バター焼きもオススメとある。2匹ずつ調理することにした。
こんがり香ばしい香りをまとったそれぞれのヤマメが出来上がる。
「うわー! 何これ! めっちゃくちゃうまい!!」
「おかーつぁん、おいしくてとまらない」
食べ始めると息子たちの箸が止まらず完食するまでそのスピードが緩むことはなかった。自分たちで捕まえたヤマメを自分たちでさばき、調理した味は本当に格別だった。
皮までおいしく頂き、空っぽになったお皿を見て、私はある種の感動を覚えた。もちろん、釣ったばかりのヤマメを新鮮なうちに調理できた事がよかったのは間違いない。しかし、苦手分野と思っていた事に挑戦してみて、初めて見えた景色が美味しさを上乗せさせているのではないか。そうも思ったのだ。
これはきっと、全工程に関わった者にしか食べられない特別な味なのだ。いざやってみれば、そんなに難しいことではなく、やった事がないからこそ余計に苦手意識が風船のように膨らんでいたみたいだ。苦手意識をなくすには、下手でもいい、まずは実践なのだ、とヤマメが教えてくれたような気がした。
この秋、スーパーの鮮魚市場で挙動不審ながらも、魚を丸ごと買おうと吟味している女がいたら、それは私かもしれない。【終わり】
***
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