メディアグランプリ

パラレルワールド


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:みちこ(ライティング特講)
 
 
私の斜め向かいの席のUさんに、主任が話しかける。
「今度新しく導入されるシステムの研修会、参加お願いします」
 
Uさんは2人の男の子のお母さんで、仕事は堅実、自分にも他人にも厳しい人だ。
何が何でも女性管理職を増やさねばならぬ上層部のプッシュを受け、今月、管理職選考試験を受験した。結果はまだである。
管理職になるには、日々の仕事の成果はもちろん、プラスαの貢献度が求められる。ポイントゲットのための研修や協議会への参加が必須なのだ。
育児時間のため勤務は4時半までだが、Uさんは残業をする。子どもの病気や学校行事で仕事を休まざるを得ず、どんなに手元の仕事が山積みになっても、上からの期待には応えなくてはならない。主任が席を外すと、Uさんが爆発した。
「ああもう嫌! 本当はやりたくない! でも言えない!」静かになったのでふと見ると、書類を読む態勢をキープしながら船を漕いでいる。その様子はまるで、ねじをいっぱいに巻いて勢いよくシンバルをたたき始めたサルのおもちゃが、力尽きて止まってしまったかのようだ。
疲れが溜まっているのだろう。私はそっと見ないフリをした。
 
私はUさんよりずっと長くこの部署にいる。同僚や上司は何かと相談してくるし、「この部署はあなたでもっているようなものだから」とオベンチャラを言う人もいる。
だが、私は正社員ではない。もともとは正社員だったが、若い頃に退職し、14年のブランク経て復職した任期付きの臨時職員である。研修や協議会への参加などに声が掛かることはない。
キラキラした人たちへ放たれる期待の矢は、時にその風圧をもって私をよろめかせる。
 
この職場では、出産した女性は育児休業を経て職場復帰し、育児時間やフレックス制度をフル活用して仕事を続ける。キャリアアップも可能な、恵まれた環境である。だからこそ、皆が当然のようにこのレールの上を走る。レールから外れることはタブーであるかのように、苦しくても走る。
 
かつて私も、このレールの上を走っていた。
地点A。
入社してからずっと走り続けるつもりだった。仕事を辞める選択肢はない。恵まれた職場環境というのが当時は今よりずっと珍しかったので、女性の地位向上の足を引っ張ってはいけないという脅迫観念さえ抱いていた。
 
予期せぬ事態が訪れたのは入社7年目のときだ。
 
娘が1500グラムの低出生体重児として生まれた。
妊娠中も切迫流産を繰り返し、命からがら、娘は生まれてきた。
育児休業中はそばにいたので安心だった。何かとトラブルはあったが、穏やかで平和な日々は心地良かった。
しかし、停車時間は決まっている。私はまた、あのレールの上を走り始めなければならない。
まだまだ小さく捉まり立ちもできない娘は、私の発車時刻に合わせて定員オーバーの私立保育園にねじ込まれた。
 
保育園へ預けるのに娘は毎朝泣いた。身を切られる思いで私も泣けてきた。迎えに行くと、鼻水でカピカピになった顔をくしゃくしゃにして抱きついてくる。また泣けた。
さらに入園してすぐ、娘はインフルエンザをこじらせて肺炎を発症し、入院した。
私は仕事を長く休むことになった。同僚に迷惑をかけたくない、責任を持って仕事がしたい。しかし私はうろたえながら、制御不能な事態を受け入れるしかなかった。
「大変なのは今だけだから」
「そうやって悩みながら続けていけばいつか良かったと思える」
「今まで頑張ってきたのに辞めるのはもったいない」
頭では理解できる。私がいつも考えていることだ。やはりそれが正解か。私は消えない違和感を飲み込んだ。
 
退院後間もなくして、今度は娘がひどく咳き込みはじめた。夫と交代で看病することにし、私が出勤してここぞとばかりに残業した日、娘は気管支炎を悪化させて再度入院することになった。
 
一体私は何をしているのか。このままだと娘の命さえ奪ってしまうのではないか。
 
私は不安と後悔の海の中に沈み、溺れそうだった。息苦しい。
 
病室は娘と同い年の女の子との相部屋で、女の子のお母さんはとても人懐っこい人だった。
私は自分の中のもやもやした気持ちを彼女に話してみた。彼女は言った。
 
「この子も生まれてから何度も入院していてね。頑張って仕事を続けていたけど、思い切って辞めたら今穏やかですごく楽しいよ。仕事の代わりは幾らでもいるけど、この子のお母さんは私だけだからね。こんな気持ちになるとは思わなかったよ」
 
その言葉は、違和感なく私にまっすぐ届いた。心が共鳴し、呪縛から解き放たれていく。
逃げる?人がどう思ったっていい。このレールから飛び降りよう。タブーがなんぼのものだ。
私は出勤するやいなや、上司に退職を申し出た。
 
地点B。
私は人生設計のコースを大きく外れて歩き出した。暗黒だと思っていた扉の向こうには、意外にもカラフルな世界が続いていた。私は手に入れた日々を後悔しないよう、懸命に楽しんで過ごした。第二の青春と言ってもいいくらいだ。
 
縁あって元の職場に復帰することになり、ときには、地点Bでレールを降りなかった別の世界の私を想像することがある。
パラレルワールド。そこで生きる私は、Uさんのように頑張っていただろうか。
しかし幸いなことに、自分の選択を後悔したことは一度もない。
 
私は手元の仕事をこなし、同僚の溜めた仕事の処理に助っ人として精を出す。混み合った来客をさばき、異動してきた人のお世話に重宝されれば上出来だ。そして今日も「この部署はあなたでもっているようなものだから」とオベンチャラを言われている。
 
 
 
 
***
 
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2024-10-17 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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