横から生えた親知らずと内省
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記事:まほ(ライティングゼミ)
やたらと時間がかかっていた。
このまま日が暮れそうだった。
いっそのこと日をまたいでもいいから、どうか無事に帰してほしい。望むことはそれだけだった。
矯正歯科の先生に言われたのは、たしか今年の春だった。
「うん、親知らず抜こっか」
あまりにも唐突すぎて、脳の処理が追いつかず、
「秋の次は冬だね」
くらいのどうでもいいこととして認識してしまっていた。後になってよくよく考えれば、これは私にとって重大発表だった。
少しばかり歯学をかじったことのある私は、抜歯についてあまり良い考えを持ってなかった。歯と脳のつながりは密接で、よく噛んで食べると脳が活性化する。歳を重ねても話が通じる人に、歯がきれいに残っている人が多いのはそのためである。歯を大切に残すことは、人生の充実度に関わる問題なのである。だから、歯を抜きたくなかった。
でも、先生のまっすぐで濁りのない瞳に見つめられた私は、いつの間にか
「はい」
と答えていたのだった。
あれから半年が過ぎてしまった。そろそろ向き合わないといけない。後回しにしても自分が辛いだけである。
朝一番に歯医者を予約し、重い足取りで診療所にむかう。小雨が降っていた。
受付で手続きを済ますと、部屋に案内され、椅子に座った。
「こんにちは」
歯科医師が顔を出した。ワックスであらゆる髪の毛をオールバックにしていた。ほんとに、この人で、大丈夫かな、という不安がよぎる。
「よろしく、お願いします」
「まずは表面麻酔をしますね」
麻酔をしてくれる。それだけでいくぶん安心した。患者は何もしなくてよい。究極的には、寝たってよいのだ。実際そこまでするつもりはないが、緊張状態がほぐれたのは確かである。
「次に麻酔を打ちますね」
これが、痛かった。不意打ちだった。絶妙な隙間に注入された。腕の良いことは分かった。涙がじんわりと出た。
「痛くなったら左手を上げてくださいね」
そんなことが起きない未来を願っていた。
そして手術が始まった。
人にされるがままな状態の時、様々な雑念が出てこないだろうか。身体が拘束されたり不自由なとき、思考だけが唯一自由であるからだ。
今、歯を抜かれようとしている、という現実を忘れ、なんの関連性もないことを考えようと努めた。
今日の晩ごはんは何にしようかな。
このあとどこに行こうかな。
腫れは何日で治まるのかな。
なんでオールバックにしたのかな。
やっぱり、全く関係のないことを考えるのは失礼な気がした。だから、無になろうと思った。
仏教関連の本で、雑念がもっともいらないものだという文章を読んだことがある。人はただ生きているだけでもいろいろなことを考えてしまう生き物である。瞑想という言葉の存在が、雑念に囚われた私達の確かさの証拠になっている。勉強やスポーツなどにおいて、雑念は集中力の妨げになり、本来の力を発揮できなくなる。
だから、いま、ここ、を大切にしようと決めた。歯を抜かれる私を全うしようと決めた。
それにしても、雲行きが怪しくなってきた。
先生の手に力がこもり始めたのである。こころなしか震えている。顎をがっちりと掴まれた。クライマックスなら良いのだが、そんな感じでも無さそうである。ペンチで歯を割られながら、思った。
もしかして、今日抜ききらないことってある?
途中まで除肉しといたので、次の日また来てください、みたいなことある?
もう、どうなってもいいから、命だけは助けてほしい。衣食住があればよい。抜歯一つに大げさな、と思うかもしれないが、本当にそう思えたのだから仕方がない。
覚悟を決めてから、5分は経った。コップに水を注がれる音がした。
「もう抜けましたんでね、お口をゆすいでください」
「えっ」
あれだけ長く感じた抜歯が、たったの一言で一瞬の出来事になった。
痛みで左手を挙げることもなかったし、追加の麻酔を打たれることもなかったし、抜歯が中途半端な状態で終わることもなかった。
全ては取り越し苦労だった。
邪念は人を狂わせる。起こりもしない未来について、ネガティヴに考えすぎるのはよくない。もちろん、おおよその筋道を立てておくことは大切である。それこそ勉強やスポーツや自身の将来設計にはなくてはならない。しかし、物事に取り組んでいる最中は意識しすぎないほうがうまくいきやすいのである。その瞬間の出来事を享受すればよいのである。
無は、何も考えるな、ということでも無いように思う。何も考えないようにすると、「何も考えないようにしている自分」があるからだ。坐禅や瞑想の求めるものは、意識の領域を広げ、起こり得るすべてのことを必然とし、意識が私一人だけにとどまらないようにすることのように思う。
どうやら親知らずは、頬の外側から舌に向かって横向きに生えていたらしい。それが手こずった原因だそうだ。
抜かれた後の歯を見てみた。淡いピンクの歯肉をつけたそれは、なんだか可愛く見えた。
***
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