背番号3をつけたヒーロー
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:小林利幸(ライティング・ゼミ9月コース)
「次の試合からキャッチャーをやってくれないか」
突然の監督の指示に戸惑った。なにせ、キャッチャーは、やったことがない。
監督に、聞いた。
「なぜですか? 監督」
監督からは、そろそろ皆をまとめる役を担って欲しい。と、言われた。
僕は、小学生3年から町内会の野球部に所属していた。
入部当初は、野手のグローブの使い方やバットのふり方もろくに分からなかった。
しかし、仲間であるメンバーが厳しくも丁寧に教えてくれた。
そのおかげもあり、半年ほど過ぎたころから、一番ボールが飛んで来そうもないライトの守備につけた。
ライトは、打者から見て外野の右側の守備位置である。僕の所属していたチームは、右打ちの打者が多かったので、右方向のましてや外野のライトまで打球が飛んでくることはめったになかった。経験の浅い僕には、適任だったのかもしれない。
それでも僕は野球が好きだった。
僕は巨人ファン、中でも長嶋選手(現読売巨人軍名誉監督)が大好きだった。
チャンスでのホームランや、三塁ゴロを取り、蝶々のように華麗に一塁へ投げる。
僕の目に♡マークが点灯していた。
1960年~1970年代は、頻繁にテレビでプロ野球が放送されていた。
プロ野球は、高度成長期を象徴するスポーツだった。
サラリーマンやその子供の僕たちは、野球を見たりやったりすることが多かった。テレビ中継が終わるとラジオにかじりついて最後まで興奮していた。
長嶋選手は、皆が期待しているときに必ずホームランやヒットで点を取ってくれる。
僕にとっては、絶対的なヒーローだった。
「将来は長嶋選手のようになりたい」と思っていたほどだ。
彼の背番号は、「3」番であった。
町内会の野球部に入って3年経ったころに、キャッチャーへの守備替えの指示が来た。
そして、キャプテンを任命され、背番号も「3」番をもらった。
当時の人気背番号は、「3」「1」「18」であり、競って奪い合った。
しかし、僕に、キャッチャーがつとまるだろうか。
我がチームの投手の球種は、直球だけだったので、バッターに向かって投げる際にどのコース(ホームベースの真ん中か、左右のどちらか)を指示するだけだが。自信はない。
だが、チームの皆が応援してくれ、僕の指示に従ってくれた。
キャッチャーへの守備変更には、もう一つの問題があった。
僕は、キャッチャーミットを持っていない。
キャッチャー専用のグローブのことである。
しかし、監督に相談したら、野球部で共有のキャッチャーミットを貸してもらえることになった。
これで一安心だ。
練習が終わり家に帰り、母親にキャッチャーをやることになったことを話した。
キャッチャーミットは、借りることになったことも言った。
母は、黙っていた。
それから数日後に母親に連れられて、バスで近くの国電(現在のJR)の駅まで行った。
その駅の商店街は、旧中山道沿いにあり、八百屋、魚屋、衣類、パチンコ、ストリップ小屋など雑多な通りだった。
その外れのストリップ小屋の脇道を進むと1軒の古道具屋があった。
そこに、薄汚れてはいるが格安のキャッチャーミットが売っていた。
母は、毎日の買い物の際に、探してくれていたのだ。
小学高学年になれば、家計に余裕なんてないのは、なんとなくわかっていた。
中古だが、自分のキャッチャーミットなのだ。
その晩は、父親が会社からもらって来てくれた馬の油でグローブを磨き、一晩中抱いて寝た。
そのグローブと背番号「3」のユニフォームを着て、地区の大会に出場した。
僕のチームは、じゃんけんで勝って、後攻めを選んだ。
野球は、先攻、後攻に分かれて試合を行う。先攻が先に打撃を行い、後攻は守備につき、先攻のチームがスリーアウトになったら、攻撃を行う。それを最終回まで繰り返す。
後攻を選んだのには、理由がある。
小学生の場合は、7回までの試合だったが、後攻のほうが点数で勝っていれば、7回の表で終了出来るし、7回の裏で逆転すればサヨナラゲームとなるのだ。
僕のチームは、順調に勝ち上がり決勝戦まで勝ち進んだ。
決勝戦も後攻を選択した。
相手は、地区の中で強敵チームである。
それに相手のピッチャーは、鋭いカーブを投げると噂を聞いていた。
僕は、カーブというものをテレビでは見たことはあったが、打席に入り見たことがない。
決勝戦の前に、監督が投手になりカーブを打つ練習をした。
眼の前でボールが曲がりながら落ちていく。
それに、直球のスピードより少し遅くなる。
そうなると、タイミングが合わなくて、腰砕けになってしまう。
ボールが消えるように見えた。
でも、何回か練習をしていると不思議とタイミングが合ってきた。
「これならいける!」
決勝戦の当日になった。
僕は、キャッチャーで打順は4番だ。
緊張の極限状態。
試合が始まった。
試合には、両親ともに応援に来てくれていた。
初回に相手に1点とられた。僕は、2回の裏に打順がまわってきた。
ピッチャーのカーブは、練習の監督のカーブより落差があり、頭の上から下へ落ちていく。
タイミングが合わない。結局三振。
試合は、1対0のまま相手有利に7回の裏まで来た。
このままスリーアウトになると試合に負ける。
監督に呼ばれ指示が出た。
「相手のピッチャーは、直球かカーブしかない。カーブは捨てて、直球で勝負しろ!」
2アウトになっていた。
これで終わりかと思ったが、打順3番の人が内野ゴロをうち、相手がエラーをした。
2アウト1塁、4番の僕の出番が来た。
不思議に皆の応援の声も聞こえるほど落ち着いていた。
監督の言うとり、直球に的を絞ったが、見透かされたようにカーブばかりだ。
2ストライク、1ボール。
僕は、それでも直球を待っていた。
4球目、直球だ。
集中して、ただボールだけをよく見て、最後は目をつぶって思いっきり打った。
バットの芯に当たった手ごたえがあった。
打球はライト方向へ大きなフライとなって飛んで行った。
そして、ライト守備の頭を超えた。
必死に走った。
まず、1塁のランナーがホームイン。
僕は、3塁まで来て、3塁コーチを見た。
3塁コーチは、ホームへそのまま走り抜けと手をぐるぐる回している。
途中滑りそうになったが、必死に走りホームベースへスライディングした。
「ホームイン!」
ランニングホームラン。勝った。
皆と抱き合って喜びを発散しまくった。
皆でつかみ取った優勝だ。
試合後には、皆で集まってカレーライスを食べた。美味しい。
しかし、僕の頭の中には、その時のカレーライスの匂いよりも、スライディングした際の砂埃の匂いが、まだ頭の中に残っている。
その後、僕も中学生になり2年生になっていた。1974年の出来事である。
長嶋茂雄選手の引退試合の日が来た。
彼は、最後までスターだった。最後のホームランをレフトスタンドへ放り込んだのだ。
引退セレモニーで、「我が巨人軍は永遠に不滅です!」という名言を残して、グランドを去っていった。
***
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