小さな壊れた腕時計
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:Motobu(ライティング・ゼミ9月コース)
「このフランクミューラー、いいでしょう?特別なムーブメントが使われているんですよ。これ、限定モデルなんです」
高級レストランの個室に響く先輩の声には、どこか自慢げな響きがあった。テーブルを囲む人々は、口々に賞賛の言葉を投げかけ、先輩の腕元に視線を集中させていく。確かに、その時計は美しく、洗練された雰囲気を醸し出していた。文字盤の曲線は芸術的で、ケースの輝きは見る者を魅了する。
しかし、その場の熱に浮かされたような空気の中で、私の心だけが妙な違和感に包まれていた。それは、価値あるものを見せびらかすことへの違和感であり、同時に「本当の価値とは何か」という問いが心の中でうずきはじめていたからだった。
私も腕時計を持っている。オメガのスピードマスター。今は動かなくなってしまった古い時計だ。文字盤には細かな傷があり、ベルトも使い込まれて艶が失われている。調べてみると、フランクミューラーと比べれば、その価格は比べものにならないほど安価なものだという。新品であってもその差は歴然としている。しかし、私はこの時計を何物とも交換したくない。それは、価値というものが値札の数字では測れないことを、この時計が教えてくれたからだ。
この時計には、私の人生の転換点となった、ある物語が刻まれているのだ。
私が高校を卒業する年、私たち家族は大きな試練に直面した。父は叔母の夫が経営する会社で実質的な経営を任されていた。社員からの信頼も厚く、会社の成長を支えてきた存在だった。しかし、叔母の比較的裕福な暮らしにそれとなく近寄ってきた人間に叔母はあっけなく騙され、会社の資金に手をつけてしまった。会社は急速に傾き、最終的に倒産。私たちの実家は会社の担保に入っていたため、競売にかけられることになった。思い出が詰まった庭の木々や、近所の人々との別れは、特に母にとって辛いものだった。その時の母の泣き顔は、今でも私の心に深く刻まれている。
しかし、父の背中は決して曲がらなかった。むしろ、会社で自分を慕ってくれていた部下たちのために、新しい会社を立ち上げる決意をした。
「家族も大切だが、一緒に働いてくれた仲間たちの生活も守らなければならない」
その言葉は、当時18歳の私に「責任」という言葉の重みを教えてくれた。父は、ゼロからの再出発に踏み出した。新しい事務所は古いビルの一室。以前の広々とした事務所とは比べものにならない環境だったが、父の周りには信頼する仲間たちが集まってきた。
後に父は私に打ち明けてくれた。以前取引のあった会社に営業に行こうとした時、会社の前で何本もタバコを吸いながら逡巡したという。「申し訳ない気持ちと、恥ずかしさで一歩が踏み出せなかった」と父は語った。しかし、意を決して訪問すると、「どうしていたのか心配していたよ」と温かく迎えられ、新たな仕事を任せてもらえた。その話を語る父の姿は、人との信頼関係の尊さを私に教えてくれた。困難な状況でも、真摯に向き合い続けることで生まれる絆があるのだと、父の姿から学んだ。
あれから20年以上が経った。父の会社は着実に成長し、かつての部下たちも重要な戦力として活躍している。今では新しい若手社員も増え、父は以前にも増して生き生きと仕事に取り組んでいる。朝一番に出社し、自分の仕事に励む父の姿は、私にとって誇りであり、同時に「成功とは何か」を考えさせてくれる。それは単なる売上や利益の数字ではなく、人々との信頼関係の中で築かれる確かな価値なのだと。
だからこそ、父からもらったこのオメガのスピードマスターは、私にとってかけがえのない価値を持っている。この時計は、私にとって、人生の教科書なのだ。なぜなら、困難に直面しながらも諦めることなく、周りの人々への責任を果たし続けた父の生き様が、この時計の一つ一つの傷に刻まれているからだ。
現代社会では、しばしば価値を金額で測ろうとする。高価なものには価値があり、安価なものには価値がない、というような単純な図式で物事を判断しがちだ。高級ブランドや限定品が持てはやされ、その所有が誇示される世の中だ。しかし、その価格は単なる需要と供給のバランスで決まった数字に過ぎない。マーケティングや希少性によって作られた価値は、本当の価値とは異なるものではないだろうか。
本当の価値は、そこに込められた想いや、紡がれてきた物語の中にこそある。私の壊れた時計は、そのことを私に教えてくれる。たとえ動かなくなっても、この時計は父との絆や、人生における大切な教訓を私に伝え続けている。困難に直面しても諦めないこと、周りの人々への思いやりを忘れないこと、そして何より、目に見えない価値を大切にすることの重要性を。
今は静かに時を刻むことをやめたこの時計だが、私の心の中では、確かな時を刻み続けている。それは、本当の価値を見極める目を養う時間であり、父から受け継いだ大切な信念を育む時間なのだ。
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