メディアグランプリ

限りなく日本酒に近い水と、午前3時の心の話


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記事:鈴木 雄大(ライティング・ゼミ11月コース)
 
 
それは夏になると日本中の海水浴場に出現する海の家、ではない。割烹海乃家(うみのや)は、かつて昭和の時代に高田馬場にあった飲み屋だ。路地の突き当たりにある一軒家だった。割烹といっても、決して高級なお店ではない。大学生相手の敷居の低い店だったが、僕らにとっては唯一無二の場所だった。
 
海乃家を一次会で使うことは、あまりなかった。使うのは三次会以降がメインだ。なぜならこの店の売りは泊まれることだったからだ。広めの個室の座敷にカラオケが設置され、料金は料理とお酒込みで一人2,500円程度、追加料金なしで始発まで過ごすことができる。常にお金が無く、大学の学食で190円のサービスカレーばかり食べていた僕らにとって、本当にありがたいお店だった。
 
割烹という名を冠してはいたものの、僕らに出されるつまみはかっぱえびせん、ポテトチップス、ポップコーン、ポッキーなどの乾き物が中心だった。いつか大人になって海乃家にもっと高いお金を払うことができるようになったら、割烹の名にふさわしいお造りなどを食べることができるのだろうかと、当時の僕は考えていた。残念ながら、今となっては確かめるすべはない。
 
お酒については、一度こんなことがあった。当時は日本酒がブームになっていた頃で、特に新潟の地酒は水のようにすっきりとして旨いという評判だった。いわゆる淡麗辛口というやつだ。もちろん越乃寒梅のような高級酒には、貧乏学生の僕らは縁がなかったけれども。
海乃家ではいつも白い陶器の徳利で、ぬる燗のちょっとべとべとした日本酒が出される。しかしその日に出された日本酒は、いつもの海乃家の日本酒とはひと味違っていた。まるで水のようにすっきりした味なのだ。僕らがすいすいと日本酒を飲みながら「いやー、まるで水のようだね。さすが割烹だけあるね」などと喜んでいたところに、仲居さんが大慌てで入ってきた。「すみません! 徳利に水を入れていたものを、そのままお出ししてしまいました。今すぐ交換いたします!」
 
夜中の12時を過ぎる頃には、カラオケで大騒ぎをしながら、みんなで馬鹿話をしている。そのうちに酔いも回り、また畳の個室だということもあって、一人また一人と、その辺で横になり始める。そして最後、騒ぐのにも疲れて、でも眠るのは何だか勿体ないと思う男女数人が、部屋の隅に集まって語り始める。それはだいたい午前3時頃のことだった。
 
午前3時の海乃家で語られる話のことを、僕らは「心の話」と呼んでいた。例えばそれは、彼は彼女のことが好きで、でも彼女は別の彼が好きでというような、いつの時代にも大学生が語るような、でも当の本人にとっては何よりも切実な話だったりした。その彼も、彼女も、そして別の彼もその部屋の中にいたかもしれない。ある者はその語りの輪の中にいて、ある者は座敷の隅で寝息をかいて。
 
それ以外にもいろいろな話をしていたと思うが、今の僕には思い出せない。ひょっとしたら、これから大人になることの希望と不安を語っていたのかもしれない。あるいは僕らがとても大切にしていた、あの音楽の素晴らしさについて話していたのかもしれない。覚えていられたらよかったのだけど、あれから随分時間が経ってしまったし、そもそも睡眠不足の脳の中にはその記憶をとどめることができなかったのかもしれない。
 
でも僕がその時、このように感じていたことだけは覚えている。乾き物と、限りなく日本酒に近い水を出すこの場所には、何か特別な魔法がかかっていると。なぜならそこで語られる話以上に胸に突き刺さってくる会話を、僕はそれまで経験したことがなかったし、ひょっとしたらこの先もないのかもしれないと思っていたから。本当に大切なことは、午前3時の海乃家でしか語られない。そんなことをぼーっと考えながら、僕はみんなの話に相づちを打っていた。
 
そして午前5時、僕らは海乃家を出て、白々と明け始めた高田馬場の街に出る。少しだけ赤くなった、眠たげな目をこすりながら。僕らはまたどうでもいい話をしながら、駅へと向かう。魔法はもう解けているが、僕らは昨日よりも少しだけ親密になっている、そんな気がした。
 
あれから三十数年が経つ。僕はふと高田馬場の駅を降りて、海乃家へと続く路地を入っていく。途中、道の真ん中にネズミの死骸があることに驚いたりしながら、奥へと歩いて行く。だが、突き当たりにあったはずの一軒家は既に無く、カラオケボックスが入るビルに変わっていた。
 
僕は今来た道を引き返し、学生時代にはなかった店にふらっと入る。小綺麗な、大学生ではなくて大人が来るような店だ。僕はメニューの中から刺身の三点盛りと、新潟の地酒を選んで注文する。上品なグラスに入ったその酒はとても飲みやすく、でもしっかりと日本酒の味がした。
 
 
 
 
***

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2024-11-21 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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