見て見ぬふりをしたくなかった。なのに途中で逃げ出した僕を、あの猫はどう思っているだろう。
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:777(ライティング・ゼミ11月コース)
上京して初めての冬のことだった。午前四時までかかって大学の課題を仕上げたあと、なにか食べるものがほしくなって、近所のコンビニエンスストアまで買いに出かけた。
下町の細い通りはどの商店もまだシャッターが降りていて、百メートルほど行ったコンビニだけがぽつんと明るかった。人影はなく、しんとしていて、自分の靴音がよく響いた。
道の半ばまで来たときだった。目の前に白い影が飛びこんできた。僕が足をとめると、影もとまった。
子猫だった。生まれてさほど日が経っていないらしく、小さな体に大きな目が愛らしかった。思わず息が白くこぼれた。動物は飼ったことはなかったけれど好きだった。
近寄ろうとしたら、猫はさっと身をひるがえして、商店の陰に消えてしまった。
コンビニに客はおらず、買い物はすんなり済んだ。店を出たら、目の前をオートバイが一台通り過ぎていった。僕はぼんやりそれを見やりながら来た道をもどった。
路地は街灯が間遠くて、明るいところと暗いところが交互にやってきた。その暗い真ん中に小さなこんもりとした影があるのが遠く見えた。来るときはなかったから、買い物をしていた数分のあいだにあらわれたのだった。
ねずみの死骸だろうかと嫌な気持ちになったが、数メートル手前まできて正体がわかった。
小さな猫だ。こちらに背中をむけて倒れている。尻尾はのびきり、ぴくりともしない。ふとさっきのオートバイが頭をよぎった。
とうとう猫のところまできた。背中は影になっているものの傷は見当たらなかった。しかしその向こう側、街灯のあたる腹や顔はどうなっているのか。見たくないと思う一方で、たしかめてみたい気持ちもあった。僕は立ち止まり、腹のほうへおそるおそる首をのばした。
さっきの子猫にちがいなかった。目をきゅっとつむり、うすくひらいた口の端から血がわずかに垂れていた。
ひどく潰れているのではないかと想像していたが、出血もほとんどなく白い体は案外きれいだった。ただし、お腹が小さく破れていて、そこからスパゲティのような細い腸が丸まって外に出ていた。
僕は顔をそむけて足早にその場をはなれた。けれども自分のアパートにもどるあいだ、そしてもどってからも、あの猫がどうなるのか気になってしかたがなかった。
夜が明ければ車が往来してタイヤに踏まれてしまうかもしれない。そうなれば小さな体は完全に潰されてしまうだろう。
不快感が込みあげてきて、せめてあれ以上あの子が傷つけられず、汚されないようにと願った。そう思ったら、なにもせずにいるのは薄情で卑怯だと感じられた。一瞬のすれちがいに特別な縁のようなものも感じていた。
僕はビニール袋、タオル、新聞紙、手袋を揃えると、もう一度外に出て、猫のところまで走ってもどった。
路地はしずかなままで、猫も変わらずそこに横たわっていた。今度は腹のほうから近づいていったから、裂けた傷口がはっきりと見えた。僕は目をそらして背後にまわりこみ、腰を落とした。
手早く新聞紙を敷き、タオルを重ね、手袋をはめた手でそっと亡骸を持ち上げた。思った以上に軽く、持っている感じがほとんどしなかった。
タオルの前半分にのせると、タオルと新聞紙の後ろ半分を折って体にかぶせ、お盆のように両手にのせて立ちあがった。その拍子に、腸がタオルの隙間からこぼれてささやかに揺れた。新聞紙の向こう側だったから直接は見えなかったが、どうなっているかは容易に想像できた。それでもう自分の体に近づけることができなくなって、ぴんと腕を突き出したかっこうで僕は歩き出した。
公園のような土のある場所を探していると、行く手に交番があった。ちょうど外に出ていた警察官が僕のほうを見た。不審者と思われたくなかったから、自分から警察官に近づいていった。中年の警察官は怪訝な顔をして少し身構えた。
「子猫が死んでいたのでどこかに埋めてやりたいんですが、良い場所はありませんか?」
警察官が新聞紙に目をやって顔をしかめた。内臓を見たのだと思った。
「こういうのはそのあたりに埋めることはできないんですよ」
「公園もだめですか?」
「だめです」
交番で引き取ってもらうことはできるのかとたずねると、警察官は言った。
「こちらで引き取るならごみ袋に入れて生ごみとして出すことになります」
さすがにそれはかわいそうだと思い、ほかに方法はないのかと聞いた。そうしたら動物病院に相談してはどうかと提案された。しかし病院がひらくのは九時だとも言われた。
時刻はまだ五時だった。四時間ものあいだ、この死骸をどうすればいいのか。警察官は先手を打つように言ってきた。
「ご自宅に置いておかれてはどうですか」
「授業に行かないといけないので、それはできないんです」
とっさにうそをついた。本当は授業は午後からで、時間は十分にあった。けれど自分の狭いアパートにこのグロテスクなものを入れるのは、生理的に受け入れられなかった。
警察官はそれならごみとして出すしかないとくりかえした。口調こそ丁寧だったが、僕の相手をするのを面倒に感じているのが顔に出ていた。だが僕もこのまま自宅にもどるわけにはいかなかった。
しばらくのあいだ、僕は警察官の前でどうしたらいいのだろうとぐずぐずしていた。警察官は腰に手をあてて困り顔で通りをながめるだけになった。僕は後悔していた。捨てられてもいいから、このまま警察官に押しつけて帰りたくなっていた。
「どうかしましたか?」
声がしてふりかえると、トイプードルを連れた年配の女性がいた。いつしか空は明るくなっていて、ほかにもペットの散歩をする人の姿があった。
僕が事情を説明すると、女性は世話になっている動物病院があるから、いまからそこへ行こうと誘ってくれた。僕は心底ほっとして警察官に礼を言い、女性の案内を受けて病院にむかった。
十分ばかり歩いたところに自宅で開業している病院があった。女性がインターホンを押すと、寝巻き姿の高齢の男性が出てきて、タオルと新聞紙に挟んだ子猫の亡骸を、段ボール箱にやさしく入れて引き取ってくれた。
「先生がちゃんと供養してくれるからね」
帰り道、女性が労るように僕に言った。少し先をトイプードルが爪音を跳ねさせて歩いている。うしろから朝の光がくっきりと差しはじめていた。女性は僕を心のやさしい人間と思っているようだった。そして、こうつづけた。
「猫は魔物だからね。あなたのことはちゃんと見ているわよ」
ぞっとした。
女性の言わんとしたことはわかった。けれど僕は女性の顔を見ることも、返事をすることもできず、目の前にのびる自分の影をただ見つめて歩くことしかできなかった。
女性に礼を述べて別れたあと、僕はアパートにもどって、まっさきに手袋をはずした。指先の布地に赤い染みがついていた。それに触れないようにして手袋をゴミ袋に投げ込み、手洗いに飛び込んだ。
勢いよく水を出して強く手をこすった。その激しい水音を押しのけて、女性の声がよみがえってきた。
「猫は魔物だからね」
僕は手を洗うのをやめられなかった。どれだけ水で流しても、少しもきれいになったとは思えなかった。
***
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