メディアグランプリ

大晦カー


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:西尾たかし(ライティング・ゼミ11月コース)
 
 
「乗ってきな。寒い夜だ。ボーっとしてたら、心まで凍っちまうぜ」
東京郊外の静かな夜道に響いた声。明日香は不意に顔を上げた。声の主はキャップをかぶった中年の男。彼はワゴン型のタクシーの運転席から、じっとこちらを見つめていた。
 
今夜は大晦日。
冷たい風が明日香のコートを掠める。彼女は小さなアパートに6歳の息子を置いてきた罪悪感を抱えながら歩いていた。息子は母親がいないことに気づくだろうか。それとも、寝ぼけながら「お母さん、どこ?」と暗い部屋を探し回るだろうか。そう思うと、胸がきゅっと締め付けられる。
けれど、家には帰りたくなかった。

仕事を失い、貯金も底をつき、未来は見えない。息子に「大丈夫」と笑ってみせることだけが、彼女にとって唯一の「仕事」だった。でも、それがいつまで続けられるのか分からない。何もかもが限界だった。
 
目の前のタクシーは、普通のものとは少し違っていた。街灯の下で柔らかく光を反射し、見慣れた形をしている。それなのに、どこか現実離れした存在感がある。
「乗れば分かる。こんなことは大晦日だけだぜ」
男が軽く促すように言う。その言葉に引き寄せられるように、明日香はドアを引いた。
 
車内には既に二人の乗客がいた。一人は無精髭を生やした中年の男性。くたびれたコートの襟を立て、手にはアルミ缶の酒を握っている。もう一人はショートカットの若い女性。どこか張り詰めた空気を漂わせていた。
車が静かに動き出すと、運転手がバックミラー越しに笑みを浮かべた。
「なあ、この車の名前、聞きたいか?」
明日香は戸惑いながら頷く。
「『大晦カー』だ」
運転手は大げさに肩をすくめた。
「別に俺が決めたわけじゃねえからな。ひどいネーミングだろ?」
若い女性が窓の外を見ながら小さく笑って言う。
「まあ、分かりやすい名前ではありますね」
「そりゃそうだ。大晦日にしか走らない。だから大晦カー。だけどよ、もうちょっと洒落た名前を考えられなかったのかよ。誰が付けたのか知らねえけど、俺だったらもっとマシにするね」
 
「大晦カーって……でこの車はいったい何なの?」明日香は小さな声で尋ねた。
運転手はバックミラー越しに彼女を見つめる。
「それも俺には分からねえ。ただ、大晦日になると、こうして走り出す。そして、行き先の分からねえ連中を乗せる。それだけだ」
中年の男性がぽつりと呟いた。「行き先が分からないのに、どうやって進むんだ?」
運転手は軽く笑い、「そいつはお前が決めることだよ。俺はただの案内人だ」と言った。
 
車内は沈黙に包まれていた。エンジン音だけが夜の静けさを切り裂いている。しばらくして、運転手がラジオのボリュームを少し下げた。すると、中年の男性がぽつりと言葉を漏らした。
「俺には娘がいるんだよ。いい子だった。でも、俺が酒に溺れて、全部壊した」
彼は手に持った缶を回しながら続けた。「年賀状くらい送れりゃいいんだけどな。そんな度胸もねえよ」
若い女性が窓の外を見つめながら呟く。「私も、失敗ばっかりだった。東京に出て夢を追いかけたけど、結局逃げ帰るだけ」
彼女は自嘲気味に笑った。「夢なんて、持たない方がマシだったんですかね」
明日香は二人の話を聞きながら、バッグの中にしまった息子の絵を思い出していた。「お母さん、大好き」と書かれた彼女の似顔絵を。この一年、息子のためにだけ頑張ってきたけれど、それがいつまで続けられるのか分からなかった。
運転手がバックミラー越しに明日香たちを見て言った。
「あんたら、この一年よくやったよ。今年無事、十分だよ。今夜はそれだよ。今は噛みしめるんだよ、今年無事」
その言葉は、不思議と彼女たちの心に染み込んでいった。
 
中年男性が少しだけ声を震わせながら、「娘に謝るチャンスがあるなら、やり直せるのかな」と呟いた。
若い女性はそれを聞き、「やり直せるなら羨ましい」と静かに答えた。
明日香は小さく笑って、「やり直すのって、たぶん勇気がいることだよね。でも、守るものがあるなら……やっぱり進まなきゃいけないのかも」とぽつりと言った。
彼らの会話に運転手は口を挟まない。ただ静かにハンドルを握り、車を夜の道路の先へと走らせる。
 
タクシーはそれぞれの乗客を降ろしていった。
中年男性は古びたアパートの前で降り、「行ってみるよ、娘のところに」と呟いて去っていった。
若い女性は駅で降りるとき、「もう一度、夢を追ってみます」と小さく微笑んだ。
最後に降りる明日香に、運転手が振り返って言った。「さあ、ハーフタイムは終わった。これからだぜ。守りたいもんがあるんなら、なおさらな」
明日香はその言葉を胸に刻み、静かに家へ帰った。息子の寝顔を見ながら、バッグの中の絵を取り出し、「私もやらなきゃね」とそっと呟いた。
 
 
一年が経った。
大晦カーの運転席には明日香が座っていた。この一年、彼女は助けを借りながらも自分の力で少しずつ生活を立て直してきた。そして今、大晦日という特別な夜に、道を見失った人、立ち止まった人、心が沈み込んだ人たちのそばに寄り添い、次の一歩を支える役目を果たしている。
 
夜も深まり、明日香は街中をゆっくりと車を走らせていた。そのとき、歩道に見覚えのある顔を見つけた。肩を落とし、ゆっくりと歩くその後ろ姿に、彼女は記憶の奥底で温かいものを感じた。
 
車を停め、窓を開けて声を掛ける。
「あんた、今年無事? 良かったら乗ってってよ」
声を掛けられた男は足を止め、ゆっくりと明日香の方に顔を向ける。深めに被ったキャップのツバを少し上に向け、ニヤッと笑う。
「あんたか……おちおち、うつむいてもいられねぇな」
それは昨年、彼女を乗せたあの運転手だった。
彼は車に乗り込むと、窓の外を見ながら、ぽつりと呟く。
「今度は俺が世話になる番か」
そして、軽くため息をつきながら座席に身体を沈め、バックミラー越しに助手席を見て目を丸くする。
「おいおい、なんだ? 助手席にこんなVIPが座ってるとは思わなかったぜ」
 
そこには、明日香の息子である航が、同じくバックミラー越しに彼を見つめながら座っていた。
7歳になった航は少し緊張した面持ちで、「おじさん、どこに行くの?」と彼に問いかけた。
男は窓の外を眺めながら、「どこだろうな……まあ、今年無事だったことを噛みしめながら、考えるわ」と静かに答えた。
 
エンジンの音が静かに響く中、沈黙が続く車内。ただしばらく街を走りながら、それぞれの一年を思い返していた。
明日香は、バックミラー越しに空を見る。街の灯りを映した雲間に、一瞬だけ星が輝いているのが見えた。
航がぽつりと呟いた。
「お母さん、この車って……なんのために走ってるの?」
明日香はハンドルを握る手に少し力を込め、前を見据えながら答えた。
「誰かが次の場所に進むためよ」
男がキャップのツバを軽く押し上げ、呟く。
「そのために走るんだな」
 
やがて、街は次第に静まり返り、遠くから新しい年の気配が漂い始める。大晦カーはまた夜の街を走り出し、そのテールランプが星のように揺らめきながら闇の中へ消えていった。
 
 
 
 
***

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2025-01-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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