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「現実」はどこに? 脳に見せられた「ほんとう」の世界


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:菊子(ライティング・ゼミ3月コース)
 
 
もう20年以上前になる。
今まで生きてきたこの世界が、ある日まるで違う世界に変わってしまった。そんな出来事があった。
 
***
 
いつもと変わらないある朝、仕事に行くために起きた。トイレへの廊下を進むと、床の真ん中に小さな紙切れが落ちている。レシートでも落としたかな。夕べはなかった気がするけど。
 
拾ってみるとメモ書きで、筆跡は同棲している相方のものだった。何の気なしに読んでみる。
するとメモにはこう書かれていた。
 
「この家は盗聴されている。このメモを読んだら俺を起こして。それから警察に連絡を」
 
眠気が吹き飛んだ。まるで意味がわからない。
 
え、盗聴? え、警察??
 
なんの冗談か。でも相方は、冗談は言うけれどこんな手の込んだいたずらまではしない人だ。いったいどういうことなのか。
困惑と気味悪さを感じながら、言われた通り相方を起こす。
 
起きた彼は「盗聴されてるから」と小声で言い、リビングにある小さなホワイトボードで筆談を始める。
今住んでいる賃貸アパートのこの部屋は、盗聴器がいくつも仕掛けられていること。2階の住人が私たちを監視していること。外を歩けば尾行されることなどを、次々と書いていった。……とても深刻な表情で。
 
私はその頃、終電も逃すような忙しい職場で、慢性的に帰りが遅かった。帰宅して相方と顔を合わせない日もあったけど、前日までそんな話、メールが来たことすらなかった。
とはいえ、この雰囲気はどう見ても本気だ。
 
盗聴器がこの家に……
混乱しつつもその日は出勤した。盗聴器を見つける機械とか、探さないといけないんだろうか。
「これ映画かな」と思いながら電車に乗った。実感がまるでわかなかった。
 
その日から数日で、相方の言動がおかしくなってきた。
 
家は盗聴疑惑でまともに会話できないので、休みの昼間、近所の神社へ行くことにした。歩きながら話を聞くと、昨日は警察官がずっと尾行してきたという。そんなこと、ありえるんだろうか。
 
と、突然「ハハッ!」と自嘲気味に彼が笑った。え、なに。どうしたの。
 
「前の職場のAさんが、向こうからこっちを監視してる。あの人も、俺を陥れようとしてるグループに入ってるんだ」
 
Aさんは、私も知っている。私の昔の上司で、恩師でもある。道の向こうにAさんはいなかった。
 
相方には、現実に存在しないものが見えている。
 
それまで疑いは濃かったけど、それでも半信半疑だった。それがこの瞬間に確定してしまった。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
神社の境内をただただ歩いた。何も考えられない。
 
「神さま、おねがいです。……助けてください」
 
歩きながら、腹の底から絞り出すように祈った。あんなに真剣に祈ったこと、これまで一度もない。
帰る途中、私にはAさんが見えなかったことを伝えると、相方がぼんやりとしながら言った。
 
「自分でも記憶がはっきりしない。もしかしたら、統合失調症かもしれない」
 
とうごうしっちょうしょう。
 
初めて聞く病名だった。
どうやら、相方も自分の異変になんとなく気づいていたらしい。自身で判断がつかないながらも、ネット検索していたのだろう。
 
病気だったとして、治るんだろうか。生活や仕事は続けていけるのか。この悪夢の世界からもう戻れないんじゃないか。そう思うと、不安で、怖くて、仕方なかった。
心の底から笑顔になれる日なんて、もう二度と来ない気がした。
 
その翌日、事態は抜き差しならなくなった。
 
こんな時なのに仕事を休めなかった。不安な気持ちで帰宅すると、相方はリビングにいた。「無事だった」とホッとした次の瞬間、安心は一瞬で消える。
相方は床に正座をしたまま、涙を流しながらガタガタ震えている。この人が泣いたところなんて、今まで一度も見たことがなかった。
 
「煙草を吸わせてください。許してください」
 
何者かに許しを請うような言葉や、意味不明の文字が書かれたホワイトボードが、床に落ちていた。
 
***
 
「統合失調症の大きな特徴に、幻覚や幻聴、妄想があります。日本人の100人に1人がかかっている病気です」
 
40代くらいの真面目そうな男性医師が静かに言った。
 
なんでもこの病気は、発症の原因はまだわかっておらず、複数の要因が絡んで発症するらしい。脳内の神経伝達物質が関わっているのではないかともいわれている。
だから診断は、血液検査などでわかるものではないらしく、現れている症状の程度が基準を満たすこと、また、投薬して症状が改善したら「当たり」だったと判断するんだそうだ。(当時はそう言われた)
なんだかすっきりしない診断方法だと思ったけれど、お願いするしかない。
とにかく、専門医に診てもらえることが、頼れる相手がいることが、救いだった。
 
通院と投薬が始まり、だんだん「陽性症状」と呼ばれる幻覚や妄想の症状が和らぐ。発症すぐ病院へ行ったのが幸いしたらしく、服薬は発症から早いほどよいのだそうだ。
当初、増やしていくことが多いと言われていた薬の量も、増やさずに済んでいる。
 
ただ、処方された薬は副作用もあって、「自分と外の世界の間に膜が張られているような感じ」「感情がわかない」と相方は言った。一気に解決とはいかないよね。焦らず気長にいこう。
 
***
 
この出来事が起きて、強く思った。自分の見ているこの世界は、本当に「現実」なのだろうかと。
映画の「マトリックス」を思い出す。現実だと信じていた世界は、電気信号でできていたという物語。それは、映画の中だけの「お話」なはずだった。
 
幻覚の中にいた相方にとって、恐怖の世界は現実だった。
私たちは、脳の受信した電気信号でこの世界を知覚する。その脳にエラーが起きたとき、自身ではその誤りに気づけない。
そんな信用ならないものに頼って生きているのが、私たち人間なのかと愕然とした。
 
仕事柄、妄想に囚われたようなメールを目にする機会がある。それを読んだ人は、あまりの突拍子のなさに困惑する。私も、この出来事が起こらなければ同じだっただろう。
でも、突然世界が反転する可能性は、どんな人にも存在することを知った。だからそのメールを書いた人は、もしかしたら、私や、あなただったかもしれない。
 
こちらから見えなくても、その人は苦しい世界の中で生きている。
そのことを忘れないようにしようと思った。
 
***
 
相方の病気が寛解(かんかい:全治はしないものの病状が治まり穏やかになること)しつつあったある日、二人でシルクドソレイユのサーカスを観に行った。
オープニングの演出が特にすばらしく、美しさと驚きで心底ふるえた。
終演後、「すごかったね!」と話しかけると相方が、「……感動した。涙が出た」と言った。
「感情がわかない」と言っていたあの頃は、こんな言葉が聞ける日がくるとは思っていなかった。私も涙が出そうになった。
 
その後何年も経ち、色々あって、結局彼とはお別れした。
それでも、あの感動した日のことは今でも忘れられない。
 
 
 
 
***

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2025-04-17 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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