速度と記憶の物語
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:土佐 徳彦(ライティング・ゼミ集中コース)
※この話は、一部フィクションです。
「ピーヒャラララプー」
それは1990年代後半のことだった。インターネットが一般に広まり始めたばかりの頃、僕はスコットランドの小さな田舎町で学んでいた。窓の外には牛や馬が見える静かな風景が広がっていた。
コンピューターと電話回線を物理的につないで、「ネットサーフィン」と呼ばれる新しい遊びをしていた時代だ。流行の歌謡曲を一曲ダウンロードするのに、5MBと仮定して、約25分もかかった。僕は、ただじっとコンピューターの進捗バーを眺めていた。1%、2%、3%と、まるでカタツムリが這うような速度で数字が増えていく。
「ピーヒャラララプー」という音は、今でも耳に残っている。モデムが電話回線に接続するときの、あの特有の電子音だ。まるで小さな宇宙人が秘密の暗号でこちらに何かを伝えようとしているような、そんな奇妙な音だった。
部屋の隅に置いた大きなブラウン管のデスクトップパソコンは、僕にとって異世界への入り口だった。ダウンロードが始まると、僕はベッドに寝転んで天井のしみを眺めたり、古い音楽雑誌をパラパラめくったりした。そしてダウンロードの終了を告げる「ピロン」という音が鳴ると、小さな成功を収めたような満足感があった。
それから5年後の1999年、ISDNという新しい回線を引いて、インターネットの速度はかなり上がっていた。同じ5MBの音楽をダウンロードするのに、もう8分程度で済むようになっていた。8分というと、カップラーメンを作って、熱すぎるスープを冷ますのにちょうどいい時間だ。
僕はよく窓辺に立って、公園で遊ぶ子供たちを眺めながら、ダウンロードの完了を待った。そして「ピロン」という音が鳴ると、また机に戻る。そんな日常が続いていた。
2003年になると、僕は東京の中心に引っ越していた。インターネットはADSLという高速回線になり、5MBのファイルをダウンロードするのに、もう2分ほどしかかからなくなっていた。コーヒーを淹れる時間だ。湯を沸かして、豆を挽いて、お湯を注ぐまでの間に、もうダウンロードは完了している。
「ピーヒャラララプー」の音は、もはや懐かしい記憶の中の音になっていた。代わりに現れたのは、画面の隅で回り続ける小さな円形のアイコン。それは忙しそうに回り続け、ダウンロードの進行状況を知らせてくれる。
2009年、光ファイバー回線が一般家庭にも普及し始めた頃。5MBのファイルは、もう20秒もあれば手に入るようになっていた。コーヒーカップを手に取り、一口飲む間の出来事だ。
若い世代は、あの「ピーヒャラララプー」の音を知らない。時々YouTubeで「モデム接続音」を検索して聴いてみる。それは僕の青春の一部だった。
2014年、スマートフォンが当たり前になった時代。5MBのファイルは3秒ほどでダウンロードできるようになっていた。まばたきをする間の出来事だ。
もはやダウンロードを意識することすらなくなっていた。曲を聴きたいと思えば、ほぼ瞬時に再生が始まる。かつての「待つ」という体験は、遠い記憶の中の出来事になっていた。
まるで別の時代の物語のように。
2019年、5Gという新しい通信規格が話題になり始めた頃。5MBのファイルは、もはや1秒未満でダウンロードできる時代になっていた。指を鳴らす間の出来事だ。いや、指を鳴らす前に終わっている。
音楽は「所有」するものではなく、「アクセス」するものに変わっていた。何千万曲もの音楽が、クラウド上にあり、聴きたいと思った瞬間に再生できる。
2023年、僕は山の麓の小さな町に引っ越していた。50GBの大容量ファイルでも、あっという間にダウンロードできる時代になっていた。思考の速度より速い。
僕は、ときどき山の上から夜空を見上げる。そこには無数の星と、人工衛星の光が混在している。かつて25分かかっていた情報が、今は光の速さで地球を駆け巡っている。
大阪万博から5年後の2030年、現在。僕はもうすぐ60になろうとしていた。インターネットは「ネット」とすら呼ばれなくなり、単に「つながり」と呼ばれるようになった。脳にチップが埋め込まれ情報は思考と同じくらい速く移動する。いや、もっと速いかもしれない。何かを調べるのに物理的なコンピューターはもういらない。頭の中でつぶやけばそれでいい。
僕はときどき、昔使っていた古いコンピューターを取り出して電源を入れてみる。そして、あの「ピーヒャラララプー」の音を聴くための特別なソフトを起動する。
でも、不思議なことに、僕は時々あの「待つ」時間が恋しくなる。進捗バーがゆっくりと進むのを見つめながら、想像の中を旅した時間。
それは今では得られない贅沢な時間だったのかもしれない。
さまざまな速度は上がったが、僕たちは本当に豊かになったのだろうか。すべてが即座に手に入る世界で、「待つ」ことの価値を忘れてはいないだろうか。
夕暮れ時、僕は縁側に座って、遠くの山々を眺める。雲がゆっくりと流れていく。自然の速度は、技術の進化に関わらず、変わらない。
僕は昔のCDプレーヤーを引っ張り出して、実物のCDを入れる。少し傷がついて音飛びする古いマドンナのアルバム。デジタルの完璧な音質ではないけれど、あの時代の空気を含んだ音楽が流れ出す。
技術の速度と、心の速度の間で、僕たちはバランスを取りながら生きていく。それが人間らしさなのかもしれない。技術がどんなに進歩しても、月は昇り、風は吹き、季節は巡る。
窓の外で、虫の音が聞こえる。山の向こうから月が昇ってくる。僕は静かに目を閉じる。
「ピーヒャラララプー」
あの音は、今でも僕の中で鳴り続けている。
***
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