メディアグランプリ

夕映えの水辺で、時はただ静か


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:エバリン(ライティング・ゼミ3月コース)
 
 
頤和園の湖畔に座っている。
隣には、何十年もの友情を育んできた旧友がいる。現地採用として私の会社に入社した彼女とは同期であり、以来30年もの間、幾度となく無理難題を共に乗り越えてきた「戦友」でもある。ときに姉妹のように心を通わせ、言葉にしなくても通じ合える特別な存在だ。
今こうして、北京郊外に広がるこの静かな湖を、肩を並べて眺めていることが、どれほど尊く、静かな幸福に満ちた時間であるかを噛みしめている。
 
頤和園――かつて清の西太后のために修繕された皇家庭園。北京の西北に位置するこの場所は、古くから「山水の美」として人々に親しまれてきた。広大な湖を中心に、古き中国の美意識が凝縮されたこの庭園は、訪れる者の心を静かにほどき、時の流れを忘れさせてくれる。
 
湖の向こうには、うっすらと霞む燕山脈の稜線が浮かび上がり、そのふもとを、いくつかの小船が静かに滑るように進んでいく。
五月上旬の北京は、新緑がまぶしい季節。湖の岸をぐるりと囲む若柳の並木が、そよ風に身をゆだねるようにしなやかに揺れていた。
その光景は、まるで時がゆるやかにほどけていくかのようで、私たちは並んで湖畔のベンチに腰を下ろし、何も語らず、ただ夕映えに染まる湖を見つめていた。
 
あの頃――子供だった私は、夏になると父と一緒にこの湖で手漕ぎボートを漕ぎ、笑いながら水しぶきを浴びた。
冬になると湖一面が氷に覆われ、友人たちとスケートを楽しんだ。頬を刺す冷たい風の中に、私たちの笑い声が澄んで響いていた。
頤和園は、私にとって思い出の場所であるだけでなく、中学時代の春の遠足でも毎年訪れた場所だった。
まだ物質的に豊かではなかったあの時代、遠足は特別な日だった。母が用意してくれたソーセージ、茶卵、そしてフルーツパンが、私にとって何よりのごちそうだった。
広大な庭園の中で友達と宝さがしゲームをしたり、先生からこの地にまつわる歴史や物語を聞いたりした時間は、学びと遊びが一体となった、かけがえのない思い出である。
 
そんな風景が、今、目の前の夕暮れに溶け込んでいく。変わってしまったものの中で、変わらずに残ってくれていた湖。そこにいると、まるで時間が静かに止まっているかのようだった。
 
3年前のコロナのロックダウンもあり、私は、7年ぶりに北京へ帰ってきた。
 
かつてPM2.5に覆われていた空は驚くほど澄みわたり、花と緑に彩られた街は、どこかマンハッタンのような整然さを感じさせた。環状道路は3号線から6号線まで広がり、新しい道路とEV車が走る光景は、まるで別の都市のようでもあった。
 
一昨日、空港に出迎えてくれた「首汽約車」(北京版Uber TAXI)はきれいな白のEVカーだった。タクシーの運転手との何気ない会話はいつも私が北京に来るとき最初のウォーミングアップだ。
 
私のEVカーへの好奇心に沿った質問詰めに応え、空港から市内へ向かう車の中、運転手がふと誇らしげに言った。
「この車、嵐図(VOYAH)っていうんですよ。中国の新しいブランド。値段も手頃だし、メンテナンスも安くて助かります。商売道具としては、今いちばんいい選択かもしれません。」
彼の話を聞きながら、私の視線は窓の外を流れる北京の街並みに吸い寄せられていた。
「1時間充電すれば400キロぐらいは走れますし、今では市内のどこでも簡単に充電できますよ。性能も申し分ないし、5年使えば元が取れて、気軽に買い替えられるんです。」
軽やかに、しかしどこか達観したように語るその口調に、時代の変化がにじんでいた。
ファーストフード、ファーストファッション、そして“ファースト自動車”の時代が、気づけばもうそこにある。
便利で、手頃で、次々と新しいものがやってくる。スピードのある社会に生きるということは、選ぶ自由と同時に、捨てる自由も引き受けているということなのかもしれない。
けれども――
本来、新エネルギー車は環境問題への一つの答えとして生まれたはずだった。
それが、気軽に買い替えられる「消耗品」になってしまったとき、本当にそれは持続可能な未来に貢献しているのだろうか。
職業柄か、いや、もっと個人的な感覚としてか、そんなことをふと考えてしまった。
車窓の向こうに広がる整然とした街路樹と、どこまでも続く電動車の列。その光景が、どこか静かに、私の胸に問いかけてくるのだった。そして、この街がいかに進化し、人々の暮らしに新しい日常が根付いているかを知った。
 
新しい地名、新しい道、初めて見る建物たち。私がかつて知っていた北京は、すでに“未知の都市”になっていた。
それでも、この街を歩いていると、ふいに心の奥底からあたたかなものが湧き上がってくる。
 旧市街にはかつて自転車で走った路地、街角の売店から漂ってくるこの町の独特な匂い、そして頤和園の夕暮れの静けさ――そこには確かに“かつての私”がいた。
それは、どんな都市に行っても味わえない感覚だった。
 
三十年以上、私は海外で暮らしてきた。異国の地で言葉を覚え、家族を持ち、キャリアを築いてきた。
けれどどこかで、いつも「自分はどこから来たのか」という問いが、心の奥で静かに生き続けていたように思う。
故郷とは何か。
インドの詩人タゴールはこう記した。
「故郷とは、人生という航海において、嵐に出会ったときに戻ることのできる心の港である。」
人生の旅は、しばしば予想もつかない方向へと進んでいく。けれど、どれほどの年月が流れても、どれだけ遠くに来ても、自分の中にはいつも“帰れる場所”がある。それは、単なる地理的な場所ではない。そこには、あの時代の光、音、空気、そして自分の原点がある。
私にとって、その港の名は「北京」。変わってしまった風景のなかに、なお変わらず在り続ける「私の故郷」。それは、この先どんな人生の嵐にあっても、心を休め、再び帆を上げるための、静かな港である。
 
作家ゲーテは「人が旅をするのは、場所を変えるためではない。心を広げるためだ。」といった。
そうだとしても、人は「戻る場所」なくして旅を続けることはできない。
そして今の私は、湖畔に立ち、こう思う――(完)
 
 
 
 
***

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2025-05-22 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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