メディアグランプリ

高3男子、プリンで釣れるが、黒豆せんべいで逃げる


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:由紀 みなと(ライティング・ゼミ7月コース)
 
 
「今日、寄れるかも」
 
朝のLINE通知。送り主は、別々に暮らす高3の息子。
この一文で私の心はぽっと明るくなる。嬉しくて小躍りしてしまう。
 
だが、期待し過ぎは禁物。息子の「寄れるかも」は、限りなく「寄れない」寄りだ。天気予報だと降水確率20%といったところだろう。
一緒に住んでおらず、進学を控えて毎日忙しそうな息子が「母がいる家」に立ち寄る理由など、ほぼないのだから。
 
とはいえ、LINEの返信を打つ指に少しばかり熱がこもる。おっと、ここは軽いタッチでいこう。母はこういう時、女優になるのだ。
 
「あ、ちょうどプリン作ってるところ」
 
実際、キッチンでは息子が幼い頃から大好きな、昔ながらの蒸しプリンを作っていたところだった。とろけるようななめらか系ではない。少しすが入ったような、固めのやつだ。
 
「OK」と、スタンプが返ってきた。
 
これで網は張った。あとは運を天にまかせるのみ。
 
数時間後、おっほっほ、息子がやってきた。
 
毎回、何が入っているのか聞くと、きまって「夢と希望がぎっしり」と答えるリュックを床に放り投げ、
「腹減った」と冷蔵庫からプリンを出し、スプーンですくう。
 
「うま」
 
そのひと言で、よっしゃ、今日は勝った、と思った。
何に? と聞かれても答えられないけれど、心の中でガッツポーズ。まず一勝だ。
 
続けて、梅シロップの炭酸割りも出した。
 
「これ作ったんだ。いつぶりだっけ?」
「たぶん、3~4年ぶりかな」
 
シュワシュワ、パチパチはじける泡と、鼻に抜ける甘酸っぱい初夏の香り。
ふたりで「うま」とハモる。これで二勝目。
 
息子は2杯目を飲みながら、学校のことを少しだけ話し始める。進路のこと、友達のこと、そして今の家の中のこと。具体的な不満や愚痴は出てこない。まるで編集された映画のように、安全な話題だけが選別されている。
 
「まだ、なんか食べるものある?」と息子。
 
ご飯系じゃなくて、お菓子がいいらしい。
あ、そうだと思い出し、私は棚の奥から「黒豆せんべい」を出した。
 
息子が小学生の頃、この黒豆せんべいが我が家の定番だった。ポリポリ食べやすく、甘じょっぱくて、何より安価で大容量。いつも戸棚に常備していた。数日前、スーパーで見かけて、懐かしくて大人買いしたんだった。
 
黒豆せんべいの袋を息子の前にドン! と置く。さぁ、いくらでもどうぞ。
その瞬間、息子の手が止まった。
 
「……あ、これいらない」
 
なんとなく空気が変わった。
 
「最近、お父さんが怒鳴る時、よく食べてるんだよ、それ」
息子の声は淡々としているが、その中に微かな嫌悪感が含まれている。
 
「黒豆せんべいの音も匂いも、もう無理。思い出すから」
そう言って、笑った。目は笑ってなかった。
 
食べることは、単なる栄養補給の手段ではない。中でも食べ物の匂いや、食べる時の音は感情を呼び起こし、記憶の保管庫にストックされていく。紅茶にマドレーヌを浸す香りで子ども時代の記憶がよみがえる「プルースト効果」というやつだ。
 
プリンの香りや、梅シロップのシュワシュワ音が息子にとって「子ども時代」や「安らぎ」の記憶なら、黒豆せんべいは今や避けたい記憶のトリガーになってしまったようだ。
 
「ちょっと待ってね」
 
私は冷蔵庫からオレンジを取り出した。
皮をむいて、食べやすいように果肉だけに切り分けていく。
オレンジの果汁が、シンクにポタポタこぼれる。
部屋に広がる爽やかな香り。
 
オレンジの香りは息子にとって新しい記憶の始まりになるかもしれない。少なくとも、嫌な記憶と結びついていない、中性的な存在として。
息子は安堵の表情を浮かべながら、オレンジを口に運ぶ。
 
「いいね」
 
何気ないその言葉に、私もホッとする。三勝目に手が届いたかも。
 
食べ物は記憶の保存庫で、感情の扉でもある。
私たちは食べ物を通じて愛情を伝え、記憶を共有し、そして時には意図せず不快感を連想させてしまう。
だけど、これは同時に希望でもあると思う。新しい幸せな記憶を作る機会が、常に私たちの前にあるということだから。
 
「また、プリン食べに来るわ」
 
いつでもどうぞ。なんなら明日でもどうぞ。と言いたいのをグッとこらえる。軽めに「うん、どうぞ」と返事してみる。君の前では、母は女優。
 
息子が帰った後、黒豆せんべいをじっと見つめながら考える。
 
プリンをすくうスプーンの音
鼻に抜けるバニラエッセンスの香り
シュワシュワ炭酸がはじける音
甘酸っぱいウメの爽やかさ
みずみずしいオレンジの香り……
 
たぶん息子の中では、食べ物に合わせて、静かなBGMのような音が流れていて、「母」の記憶として心に刻まれているのだろう。
それらが、息子にとって“安心の音”になっていたらいいなと思う。
 
罪なき「黒豆せんべい」は、しばらく封印しよう。
過去を否定するのではなく、落語「まんじゅう怖い」のような記憶に転じる日まで、未来に余計な“音”を加えないために、次に息子が来るまでに、私がボリボリ美味しくいただくことにしよう。
 
いつかこの先、息子が自分でキッチンに立つ日がきたとき、何かの拍子にふと思い出す味や香りの中に、今日のプリンやオレンジが紛れていたら、ちょっと嬉しい。
「ただ、なんとなく好きだった」それくらいの記憶に残れば本望だ。
 
息子がふらりと寄ったときに、あたたかくてほっとする時間が流れるといいな。私はこれからも静かに、自分のペースで、息子の好きな香りとやさしい音を用意しておきたいと思う。
 
そして、また今日みたいに息子がふらりと寄ったら、私もたぶん今日みたいに、こっそり心の中でガッツポーズしているはず。
 
気付いたことを、ひとつだけ
「高3男子、プリンで釣れるが、黒豆せんべいで逃げる」
 
 
 
 
***

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2025-07-17 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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