失礼はありがとうに化ける
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事: 福乃 玲 ( 2026年4月開講・名古屋会場 )
その日、私は4歳の娘を小児科に連れて行った。
娘は前の晩から何度も吐いていて、明らかに様子がおかしかった。
夜中に何度も起きては、すかさず洗面器を差し出し、背中をさする。洗面器が間に合わず、布団のシーツを剥がして手洗いする工程を挟みながら、ひたすら背中をさすった。冷たい水に触れた手の感覚だけがやけに残っている。
朝を迎えた私の方が、軽くゾンビ化していた。
化粧をする気力もなく、いつもはコンタクトのところをこの日は眼鏡。鏡を見る余裕もなく、服もバサッとかぶれて楽なワンピースを選んだ。ワンピースは私にとって「ただ楽な服」である。その日着ていたものも、気に入ってよく着ている一着だった。
娘を小児科に連れて行ったのは、その格好のままだった。
診察の結果は、やはり胃腸炎だった。季節柄よくあるとのことで、「やっぱりね」と「やっぱり嫌だな」が同時にくる。看病している私も、なんとなく体調に違和感がある。これはもしかして、うつるやつかもしれない。そう思い、念のため自分の分の薬も出してもらうことにした。
医師は娘の診察を終えたあと、その流れで私にも聴診器を当てた。ワンピースの上から、そのまま腹部に。この時点では、何の違和感もなかった。
診察が終わり、娘の手を引いて診察室を出る。やっと帰れる。そう思いながら廊下を歩いていると、後ろから声が飛んできた。
「お母さん、妊娠しているから吐き気止めはやめておくね」
やけに通る声だった。いや、通りすぎだろうと思うくらいに。場所は診察室の中ではない。廊下だ。待合室に向かう動線上であり、つまり普通に聞こえる位置に人がいる。
一瞬、足が止まりかける。
え、誰が?どこのお母さんが?
意味を理解するまで、数秒かかった。その数秒がやけに長く感じた。
振り返って「妊娠してません」とだけ答えると、医師は「ああ、そう?」と軽く流した。それで終わりだった。
訂正もなければ、謝罪もない。まるで今の一言が、なかったことになったかのような流れである。
しかも医師は高齢男性ではなく、アラフォーの私と恐らく同年代だ。そういう発言は控えるよう、たたき込まれてきた世代だと思う。
いや、まあ、人間だから間違いはある。それは分かる。
ただ。
私のお腹、そんなに出ていた?
いやいや、落ち着け。これは医師のミスであって、私の体型の問題ではない。たぶん。おそらく。できればそうであってほしい。
そんな、じわじわくる別方向のダメージを抱えつつ、帰宅した。
そしてその夜、食卓でその話をした。
「今日さ、小児科でさ……」
一連の流れを話すと、家族の中でその出来事は一気に“ネタ”になった。話しながら、自分でも少し笑ってしまっていた。
すると、息子が言った。
「ねえ、今度4DXの映画見に行こうよ」
息子が好きなアニメが映画化されたらしい。
4DXは座席が激しく動いたり、水や風が出たりと体感型の上映で、妊娠中は控えるよう注意書きがある。
ただ正直なところ、私はあれが少し苦手だ。年々三半規管が弱くなっているのか、あの揺れに全力で付き合う自信がない。
どうやって断ろうか、と一瞬考える。
そのとき、昼間の出来事が頭をよぎった。
これは使える。
「お母さん、妊娠中やから4DXいけへんわ~」
一瞬の沈黙。
そして、息子が爆笑した。「それ昼のやつやん!」とツッコミながら、見事なまでに笑っている。夫もそれを聞いて笑い、娘も雰囲気につられて笑っている。
その笑い声を聞いた瞬間、胸の中に残っていた引っかかりが、すっとほどけた気がした。
気がつけば、さっきまでのモヤっとした気持ちはどこかに消えていた。
私は日頃から、失敗してもそれをどうリカバリーするかが大事だと思っている。そして、誠実に対応することが何より重要だとも思っている。
だからこそ、誠実に対応してもらえなかったことは、やっぱり少し引っかかる。
けれど、受け取り方の問題かもしれないとも気付いた。
あの出来事を、ただの不快な記憶として残すこともできたし、こうして笑い話に変えることもできた。実際、我が家の食卓には、しっかりとした笑いが生まれた。
その後も私は、何か断りたいことがあるたびに「ママ妊娠してるからな~」という戦法を使い、いまのところ家族は毎回笑ってくれている。
そう考えると、話題を提供してくれた医者に感謝の気持ちまで出てきた。
……とはいえ、やっぱり一言くらい謝ってくれてもよかったんじゃないか、とは思う。
まあ、それも含めて。
医者よ、ありがとう。
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