人は、選ばなかった人生を自由と呼ぶ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:よもぎもちもち ライティングゼミ 2026年5月コース
その日、私は後輩に嫉妬した。
「お久しぶりです!」
待ち合わせの時間に十分以上遅れて現れた後輩を見て、私は一瞬、人違いかと思った。
彼は今、医者になったと聞いていた。
しかし、目の前に来た男はどう見ても医者には見えない。
褐色の肌、金ピカ時計、胸元に引っかけた黒いグラサン。
平成の終わりに絶滅したはずのギャル男が、令和に復元されていた。
彼はずかずかと私のテーブルの向いのイスに座る。
周囲から見れば、ホテルのラウンジで、スーツの男とギャル男が向かい合っている光景は、なかなか奇怪だっただろう。
彼は、今フリーの麻酔科医をしているらしい。
フリーの麻酔科医は、特定の病院に所属していない。手術がある時だけ病院に行き、そこで麻酔をかけて帰ってくる。いわば、手術室の傭兵である。
話を聞くと、週に何回か働くだけで十分生活が成り立つらしい。
「いや、この前のサーフィンがですね」
「先週観に行った映画が、めちゃくちゃよくて」
そんな、こちらの労働意欲を削るような話ばかりしている。
「まあ、帰っても誰もいないんですけどね」
後輩は笑って言った。
謙遜のつもりで言っているのだろうが、絶対に寂しがってなんかいない。
「先輩は最近、なんか楽しいことありました? 自分の時間とか、あります?」
今まで後輩の話ばかり聞いていたからだろう。無邪気に聞かれた瞬間、私は胃のあたりが鈍く痛くなった。
最近私は、仕事でなんだかよくわからない肩書をつけられ、いろいろな雑用を押し付けられるようになったせいか、残業続きだった。
たまの休日は妻と子どもを連れて出かけ、趣味で始めたはずの副業にも、いつの間にかプレッシャーを感じている。
社会人としての責任。親としての責任。夫としての責任。
そして、趣味までもが責任になって、私を縛っていた。
「まあ、ぼちぼちやってるよ」
なんて軽く流したが、心の中は、後輩の黒いグラサンよりずっと黒かった。
ずるい。
こいつはなんて自由なんだろう。
自分の好きなことをして、嫌なことは我慢しない。
私が最後にそんな生活をしていたのは、いつだろう。
仕事も、家庭も、子どもも全部置いて、どこか遠い国へ行き、こいつみたいな暮らしをしたい。
そんな考えが、一瞬頭をよぎった。
その自分に、少し引いた。
その日は、後輩が彼女から怒りの電話を受けたので、用だけ済ませてさっさと解散した。
帰っても誰もいないと言っていたのに、怒ってくれる人はいるらしい。
帰り道、私は改めて後輩のことを考えた。
平日の映画。
サーフィン。
誰の夕飯も気にしなくていい生活。
今の私とは真逆の生活。
そう思うほど、自分の毎日が急に重たく見えた。
たとえば、こんなこともあった。
仕事帰りに、同僚から「飲みに行こう」と誘われた。
珍しく早く仕事が終わった日だった。
大きな仕事が一区切りついたところで、日頃のうっ憤を晴らしたかった。
私はすぐに、
「もちろん行きまー」
と返しかけたところで、ふと妻と子どもの姿が浮かんだ。
最近は残業続きで、子どもにあまり時間を取ってあげられていなかった。
迷った。
かなり迷った。
さんざん迷ったあげく、結局帰ることにした。
理由は言わなかった。
帰りの電車の中で、私以外のみんながその飲み会に参加していることを知った。
LINEには乾杯の写真が流れてきた。誰かが変顔をして、誰かがそれにツッコんでいる。
画面の中の全員が、私のいない場所で笑っていた。
やっぱり行けばよかった。
行ったら絶対楽しかった。
もやもやを抱えたまま家に着き、玄関のチャイムを押そうとした瞬間、突然、扉が開いた。
中から子どもが全力で駆け寄ってきて、両手を広げて私に飛びついてくる。
「おかえり!」
小さな体が、ずしりと私にかかった。
その重さを受け止めながら、私はまだ、飲み会の写真を思い出していた。
あのホテルのラウンジの日から、私は胸のどこかに引っ掛かりを感じながら生活していた。
その引っ掛かりが少しほどけたのは、別の友人からあの後輩の話を聞いた時だった。
友人によると、あいつは私のことを、
「子どもがいて、家庭がある先輩がうらやましい」
と言っていたらしい。
私はとても衝撃を受けた。
私が自由でうらやましいと思っていた後輩は、私の不自由な生活をうらやましがっていた。
どうしてなんだろう。
考えているうちに私は後輩の言葉を思い出した。
「まあ、帰っても誰もいないんですけどね」
あの時は、ただの謙遜だと思っていた。
でも、もしかすると、あれは本音だったのかもしれない。
私は、後輩の自由そうな部分ばかり見ていた。
その裏側にあるものを、見ようとしていなかった。
私は後輩の人生のいいところだけを切り取って、自由と呼んでいた。
もしかすると、人は自分が選ばなかった人生を自由と呼ぶのかもしれない。
その話を聞いた夜も、私は家の前に立った。
チャイムを鳴らす前に、少しだけ深呼吸をした。
この扉の向こうにあるものは、私を身軽にはしてくれない。
でも、そこにあるのは、かつて私が選んだものだ。
後輩の人生が、完全にうらやましくなくなったわけではない。
だけど、私は自分の指でチャイムを押した。
〈終わり〉
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