メディアグランプリ

世界をトリミングするろうそくと線香


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

吉田倫子(ライティングゼミ・2026年4月京都集中コース)

実家のお仏壇では、現在、静かな歴史の書き換えが行われている。その張本人は、御年八十九歳になる私の母だ。

数年前に亡くなった父は、そのお仏壇の中に確かにいる。私が手土産を持って実家を訪れる。その土産物を仏壇に供える母の背中を見つめながら、私はいつも、ある違和感を喉の奥に感じていた。

お線香に火を灯し、チーンと静かに鐘を鳴らした母が呼びかけるのは、決まって「お父ちゃん、お母ちゃん」の二人だけなのだ。勘違いしないでほしいのだが、それは私の父のことではない。とうの昔に亡くなった母自身の両親、つまり私にとっての祖父母のことである。

仏壇に父の遺影はない。あるのは、「お父ちゃん、お母ちゃん」が金閣寺を背にして写った古い写真だけだ。位牌も「お父ちゃん、お母ちゃん」が手前にあり、父の位牌はその奥にサイズも小さく居候している。母は自分の両親へ向かって話しかけ続ける。仏壇という家族の還る場所において、父は毎日、生きた妻の手によって「いないもの」として扱われている。

カメラを手にして、日頃からファインダーを覗いている身として、私はその光景を見るたびに、ある写真用語を連想せずにはいられなかった。

「トリミング」だ。
写真のフレームから、自分にとって不都合なものを消していく作業である。

生前、お世辞にも折り合いが良かったとは言えない父に対して、母は八十九歳になった今も、「私の人生に、あなたなんて最初からいなかった」という物語を、ろうそくの火と線香の煙の向こうで、静かに上書きし続けているように見えた。

父は、北海道の増毛という、海の匂いが濃い町で生まれ育った。対する母は、古い伝統と格式を重んじる京都の生まれだ。

生前、父は「俺は京都のお墓には入りたくない」と口にしていた。

それは、母の「京都」という強い世界の中で、自分の故郷の気配を少しずつ削られてきた男の、小さな抵抗だったのかもしれない。私はずっと、そんな父の無念ばかりを見ていた。なんて冷たいトリミングだろう、と。父の実家から送られてくる海産物も、我が家の食卓に並ぶことはあまりなかった。気づけば近所へのお裾分けになっていた。増毛には小学1年生のときに行ったきり、一度も行っていない。

私は昔から、どこか人生のピントが合わない感覚を抱えていた。ピアノを長年習い、大学で音楽科に籍を置いたものの仕事にはならず、茶道も茶名をもらい師範になったのに、結局ほとんど生かせていない。なぜこんなにチグハグなのか、長い間わからなかった。

けれど今なら、少しだけわかる気がする。私はずっと、自分の本音がわからなかったのだ。

京都という伝統と格式の中で生きることばかりを見つめ、自分の中に流れているもう半分――北海道につながる感覚を、どこかで見ないことにしていた。

私は片目で、自分の人生にピントを合わせようとしていたのかもしれない。

転機になったのは、母に認知症の兆候が見え始めた頃だった。記憶が曖昧になり、家計の管理が危うくなったタイミングで、私は母の財布から預金通帳を預かった。それは、父が長年働いて貯めたお金だった。父の死後、そのお金はそのままになっていた。

ちょうど北海道旭川での写真の撮影会の話が持ち上がり、私はそのお金で飛行機のチケットを買った。

ライラック17号の車窓には、菜の花畑と山並みが流れていく。旭川では、まだ雪の気配が残る山から冷たい風が吹いていた。カメラを肩に下げ、花々にレンズを向けながら、私はふと、自分の中の矛盾に気づいた。

母の存在を枠外へ追いやり、北海道を楽しんでいる私もまた、母を自分に都合よく見ているだけなのではないか。

幼い頃の私は、母に同調し、父を「亭主元気で留守がいい」的な存在として見ていた。そして今、母の存在が自分にとって都合が悪くなれば、今度は父の側へ寄っていく。

私は結局、その時々で、自分が生きやすい物語を選び続けてきただけなのかもしれない。そう気づいた瞬間、世界の輪郭が少し変わって見えた。

人間はみんな、世界を自分に都合よくトリミングして生きている。
母も、父も、そして私も。

けれど、どれだけフレームを狭めても、消したことにした風景は、そこにある。車窓を流れる田園風景を眺めながら、自分の中にも確かにこの土地につながるものがあるのだと思った。そして私は、父が黙って働いて残したお金で、その景色を見ていた。

誰が正しくて、誰が間違っているのかなんて、結局のところ、よくわからない。

ただ私はこれから、自分の見たい景色だけを切り取るのではなく、できるだけ広いフレームで世界を見ていたいと思う。もしかしたら、目を背けていた風景の中にこそ、本当は自分を支えてくれるものが隠れているのかもしれない。

母が削ぎ落とした父の無念も、それを削ぎ落とさなければ生きられなかった母の孤独も、その狭間で揺れている私自身も、全部グラデーションのまま抱えながら。

次は、増毛まで足を伸ばそうと思う。
私自身が見ようとしていなかった景色を、今度は自分の目で見てみたい。

《終わり》

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