真っ白なスニーカー
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:吉田倫子(ライティングゼミ・2026年5月開講)
それは10年ほど前のことだった。
夜中、何かの気配に目が覚めた。
今、人が通り過ぎた?
けれど眠くてたまらない。目を開けても真っ暗だ。私はまた眠りに落ちた。
しばらくしてまた目が覚める。今度は廊下のほうに灯りがついている。
「え? 」
そんなはずはない。鼓動が速くなる。それでも、確かめなければという気持ちが勝った。リビングを横切ると、玄関先で見知らぬ若い男がこちらを振り返った。目が合った瞬間、
「うおー、おー、おー! 」
叫び声を上げながら、外に一目散に逃げていった。
私はただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。
あと一歩近づいていたら。
あと一秒早く起きていたら。
何が起きていたかわからない。
男はもういない。
どうするべきか。今、この部屋にいるのは私、1人。いや、隣の部屋で娘がぐっすりと眠っている。
これは夢だったのか。
寝室へ戻ると、ベランダには見覚えのない真っ白なスニーカーが、きちんと脱ぎそろえられて置かれていた。
夢ではない。私は一一〇番した。
ほどなくして十数人の警官たちが到着。家中の指紋採取が始まった。
「ここのドアは犯人が触った可能性がありそうですね」
警官がそう言いながら、テレビでしか見たことのない粉をはたく作業を始めた。
深夜の静かなマンションの一室が、いつの間にか事件現場になっていた。
私は一部始終を語りながら、
「この白いスニーカーが誰のかわからないのです」
と指し示した。
一人の刑事が、横に置いてあった透明のゴミ袋へちらりと目をやった。私は、その視線にどきりとした。
「酒を飲んで、酔っているんじゃないか」
そう疑われた気がした。
ゴミ袋にアルコールの空き缶は一本もない。それだけで、なぜかほっとした。真っ白なスニーカーだけが、あの夜が夢ではなかったことを物語っていた。
「においからすると北のほうへ逃げたようです。ただ、七十メートルほど先で消えました」
警察犬も来ていたようだった。「ワン」とも「ウー」とも言わず黙々と働いていた。
私は指紋を取られながら、年配の婦人警官から、
「どうしてベランダを開けたまま寝るの」
と、お説教を受ける。三方を寺に囲まれた低層マンションだった。
そんな場所で、不法侵入が起こるとは思ってもいなかった。
一方、高校二年生だった娘は、眠さに勝てない。
若い警察官に起こされ、夢うつつのまま指紋採取に応じていた。頭ごと体を揺らしながら、指を差し出している。
「もういいよ」
と言われると、煌々と明かりのついた部屋で十人近い警官たちが動き回る中、そのまま再び眠りに落ちた。
そして、警察はまだ夜が明けないうちに、風のように去っていった。あたりは何事もなかったかのように静まり返っていた。
朝、娘に、
「昨晩は大変やったな」
と声をかけた。すると、
「へ? 何のこと? 」
と言わんばかりの顔で小さく笑って、私に合わすかのように、
「うん」と答えた。
何も覚えていないのだ。同じ家で、同じ夜を過ごしたはずなのに、娘の中には、あの夜は存在していなかった。
私は侵入者と目が合い、白いスニーカーを見た。娘は、そのどちらも見ていない。
同じ時間、同じ場所にいても、人は同じ記憶を持つわけではないのだ。
二日後には現場検証が行われた。刑事が犯人役になり、侵入経路から鉢合わせした場所までを、一つひとつ写真に収めていく。刑事ドラマの再現場面を目の前にしているようだった。
しばらく家では1人でいても誰かがいるのではないかと緊張する日々が続いた。そして、寝る前どころか昼間でもベランダの鍵を確かめるようになった。
それでも時は流れ、季節は巡る。恐怖は少しずつ薄れ、ベランダの鍵を閉め忘れる日も増えていった。そんなある日のこと。
「二年前のあのときの犯人が捕まりました」
警察から電話が来た。別件で逮捕され、我が家への侵入も認めたという。近所に下宿していた学生だった。
私は人相確認のため警察署へ向かった。これで終わった。そう思うと肩の荷が降りた。
帰り道、普段は入らない少し高級な茶寮に入った。整った空間の中で、甘味と冷たい抹茶をゆっくり味わう。心の中で小さく「おつかれさま」とつぶやいた。今までの疲れが甘い味の中に溶けて消えていった。やっとすべてが終わった。
ところが、その一か月後。
「犯人の母親が、十万円で示談を申し出ているのですが、どうされますか」
と電話がかかってきた。
「申し訳ありませんが、お受けできません」
私は断った。お金で済ませる話ではないと思ったからだ。
終わったと思っていたのに、まだ終わっていなかった。電話を切ったあと、何ともいえない後味が残った。
あれから10年。今はもう、あの真っ白なスニーカーだけが、私の記憶の中に残り続けている。ベランダには、靴がきちんと脱ぎそろえられていた。そのおかげで、あの夜が夢ではなかったことを私は信じることができた。けれども、それだけではなかった。今、思うのは、あの白いスニーカーは、証拠である以上に、誰かに大切に育てられた一人の若者が履いていた靴でもあったということだ。
犯人にとって、どんな夜だったのだろう。
母親は、どんな思いであの日を受け止めたのだろう。
同じ出来事でも、人の中に残るものは、それぞれ違う。
娘には残らなかった夜。
私には、あの真っ白なスニーカーだけが残った。
その白さだけは少しも色あせていない。
《終わり》
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