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空爆の彼方でチェスを打つ


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事: 小林こば。(ライティング・ゼミ名古屋会場)

 

「日本語を教えてくれよ。ハッピーバースデーってなんていうんだ?」

ユーゴスラビア人の青年は、ノートを差し出して言った。

「漢字で書いてくれ」

僕はノートを受け取って、「誕生日おめでとう」と漢字で書く。

「なんでそんなことを聞くんだ?」

僕が尋ねると、

「そりゃ日本人の彼女が欲しいからに決まってるだろう。お前は世界で日本人女性がどれだけ人気なのか知らないのか?」

と言って、彼はニヤリと笑った。

「誕生日おめでとう」のほかにも、「愛してる」「好きです」といった言葉を書いてあげた。

そのたび、彼は嬉しそうに発音を真似し、

「これで日本人の彼女ができるぜ」

と笑っていた。

そんな彼の故郷では、空爆が続いていた。

当時は、NATOによるユーゴスラビア空爆のさなかだった。

 

大学三年生の春休み、僕は東ヨーロッパを一か月旅行した。

チェコのプラハに降り立ち、最後にたどり着いたのがハンガリーだった。

首都であるブダペストには、一週間ほど滞在した。

街を歩くと、あちこちで人々がチェスをしている。

公園でも広場でも、お土産屋でも、チェスは街に溶け込んでいた。

その光景に惹かれ、僕もブダペストでチェス盤を一つ買った。

 

安宿で出会ったのが、先のユーゴスラビア人の兄弟だった。

兄はベジタリアンで、酒もタバコもやらない平和主義者。

弟は酒もタバコも好きで、思ったことを何でも口にするタイプ。

僕はその弟と、とても気が合った。

雨の日、僕たちは宿のリビングで朝から晩までチェスを打った。

昼からビールを飲み、彼はタバコをふかしながら盤面を見つめる。

僕たちは「うーん」と唸りながら次の一手を考えた。

どちらかが勝つと、「ここはこうするべきだったね」「そうだね、あの一手が決め手だった」と振り返り、また駒を並べ直してもう一局。

大した会話はない。

ただ静かな時間だけが流れていた。

ハンガリーでは多くの観光地を巡ったはずなのに、二十年以上経った今でも鮮明に思い出せるのは、あの日のチェス盤の上に流れていた時間だ。

 

ある日、彼は公衆電話から戻ってきて言った。

「今、地元の友人に電話をしてきたんだ。電話越しに空爆の音が聞こえたよ。近くの橋が破壊されたらしい」

悲しそうな顔をしながらも、日常の出来事を話すように淡々としていた。

「友人は有名な大学に通っているんだ。僕たちの希望なんだ」

そう話をする彼に、僕はどんな言葉を返せばいいのかわからなかった。

「本当に?」「信じられない」

そんな言葉しか出てこなかった。

テレビで見る戦争は遠い国のニュースだった。

でも彼らにとっては、故郷で今まさに起きている現実だった。

「日本はどうなの? 平和なの?」

と彼が聞く。

「平和だよ。でもアメリカ軍の基地があちこちにあるけどね」

「信じられない。どうしてそんなことになっているんだ?」

本当に意味がわからない、といった様子で眉をひそめる。

「僕はアメリカが大嫌いだ。でもアメリカ人が嫌いなわけじゃない。アメリカ政府が嫌いなんだ。とても憎んでいる」

当時の僕は、人と国家を分けて考えるという発想がなく、その言葉に驚いた。

自分の国が攻撃されているのに、その国の人を憎まない。

でも、アメリカ政府に対する怒りは隠さない。

彼らが、誰に対しても優しかったからこそ、強く記憶に残っているのかもしれない。

二十年以上経った今でも、僕はその言葉を忘れられない。

僕の中では、日本語のノートとチェス盤と戦争の話が、ひと続きの思い出として残っている。

 

帰国が数日に迫ったある日、僕は一人でドナウ川のほとりのベンチに座っていた。

川はゆっくりと流れ、その向こうには古い街並みが広がっていた。

行き交う人の言葉はわからない。

知っている人もいない。

日本から遠く離れた場所で、僕は自分が何者なのかを考えていた。

一か月かけていくつもの国を巡った。

それでも、僕が知った世界は、ほんの一部にすぎない。

ユーゴスラビアで空爆が続いていることも、そこに暮らす人が何を考え、どんな日常を送っているのかも、旅に出る前の僕はほとんど知らなかった。

テレビの向こうにあると思っていた戦争は、チェス盤を挟んで向かい合った青年のすぐそばにあった。

もっと日本や世界のことを知らなければならない。

そう思う一方で、何もかもを広く知ろうとするだけでは足りないとも感じていた。

まずは自分の専門分野を一つ、誰にも負けないくらい深く掘り下げたい。

何かを知ったつもりになるのではなく、時間をかけて考え、自分の言葉で語れる人間になりたい。

 

それは、人との付き合い方も同じなのかもしれない。

日本にいたころの僕は、たくさんの人とつながっていることに安心していた。

でも、大切なのは、知り合いの数ではない。

日本に戻ったら、これまでの人間関係を一度見つめ直そうと思った。

たくさんの友達と浅く付き合うのではなく、本当に大切だと思える人と、時間をかけて深く付き合いたい。

日本人がほとんどいない環境に身を置いたことで、初めて見えてきたものがあった。

自分がこれから何を学び、誰と、どのように生きていきたいのか。

ドナウ川を眺めながら、僕はそんなことを考えていた。

 

あれから二十年以上が経った。

旅先で出会った人たちとは、その後一度も連絡を取っていない。

一緒に旅をした友人とも音信不通だ。

当時のユーゴスラビアは、その後名前を変え、やがてセルビアとモンテネグロという二つの国に分かれた。

僕がチェスを打った兄弟が、今どの国で、どんな暮らしをしているのかはわからない。

それでも、あの雨の日に向かい合ったチェス盤だけは、今も心の中にはっきりと残っている。

空爆の話をしたこと。

日本語をノートに書いて、笑い合ったこと。

ビールを飲み、タバコを吸いながら、次の一手を考え続けたこと。

国の名前も、国境も変わった。

けれど、あの日に僕たちの間を流れていた時間は、今も変わらず僕の中にある。

振り返れば、あの日ドナウ川のほとりで思い描いた未来は、少しずつ形になっていた。

 

あのとき出会った兄弟は、今もどこかで笑って暮らしているのだろうか。

電話の向こうにいた友人も、穏やかな日々を送っているのだろうか。

ときどきチェス盤を目にするたびに、僕は遠い国で過ごした日々を思い出す。

そして彼らを想い、どうか幸せでいてほしいと、今も静かに願っている。

《終わり》

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