メディアグランプリ

ひのきのぼうが捨てられない


 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:よもぎもちもち ライティングゼミ 2026年5月コース

「20円です」

店員がそう言った瞬間、私は時間を巻き戻したくなった。

家の近くのリユースショップは、日曜日の昼で人がごった返していた。

査定台にあるのは、『とんねるとんねる』という古くなった絵本だった。

子どもがまだ幼かった頃、私は何度も何度もその本を読み聞かせしていた。

電気を半分だけ消した寝室で、川の字になって寝転びながら、一緒にページをめくった。

モグラがトンネルを掘るたびに、子どもが身を乗り出す。

「もっと」

「次のページ!」

小さな手が絵本をぐっと引き寄せ、その重さが私の腕に乗った。

子どもは、次のページにモグラが出てくるたび、毎回同じところで笑った。
もう何十回も読んでいるのに、初めて見るみたいに毎回笑った。
私は「またそこか」と思いながら、繰り返しページをめくっていた。

それから約10年が経ち、リユースショップの机の上に置いてある『とんねるとんねる』は表紙は少し破れ、角は擦り切れている。

20円という値段は、物として考えれば妥当なのだと思う。

でも、この本とはあまりにも釣り合わない。

「やっぱり売るの、やめます」

喉まで出かかった。

けれど家はもう手狭で、大きくなった子どもたちの部屋にこの本が帰る場所はない。

結局私は、その本を手放した。

帰り道、私はふと小学生の頃にも同じ気持ちになったことを思い出した。
あれはたしか、『ひのきのぼう』だった。

小学生の私は、『ひのきのぼう』をずっと持っていた。

もちろん現実の話ではなく、RPGゲームの話だ。

主人公が悪い敵を倒して世界を救う、よくある冒険のゲーム。

ひのきのぼうは、その主人公が最初に持っていた武器だった。

いわゆる初期装備というやつで、当然めちゃくちゃ弱い。

少し進めばもっと強い武器が手に入るし、店で売れば次の装備代にもなる。

だから普通はすぐお店で売る。

でも、私はどうしても売れなかった。

主人公のお父さんが敵にやられる時も。

街を困らせるワルイ魔法使いを倒す時も。

幼馴染と結婚する時も。

最後のボスを倒す時までずっと、鞄の中に入れていた。

とっくに使わないし、むしろ邪魔だ。

でも、売れなかった。

旅の途中、路銀が尽きて何度か売ろうとした。

でも、売れなかった。

気が付けば、冒険が終わるまで一緒だった。

私は小さい時から、物を失うのが怖かった。

でも今改めて考えると、失いたくないのは『物』ではなく、そこに宿っている『思い出』だと気が付いた。

そう思うと、今までの自分の行動が、全部一本につながる気がする。

子どもの頃に買ってもらった茶トラのぬいぐるみ。

ずっと捨てられなかった。

大人になるまでずっと一緒に寝ていたそのぬいぐるみは、20年以上経ってボロボロになった。

それでも捨てられず、結局私は2万円払って修理に出した。

普通に考えれば、少しおかしい。

でも、茶トラの姿が、肌触りが、においが、思い出のトリガーになる。

物がないと、昔を思い出すきっかけがなくなってしまう。

もしかすると、思い出せないことも気付けないまま、大切な記憶が消えてしまうかもしれない。

私はそれを無意識に恐れていたのだった。

でも、さらに数日後、私はもっと奥底に、本当の恐怖を感じていることに気が付いた。

それは、日記を書こうとしている時だった。

私は数年前から毎晩一言日記を書いている。

「娘がお菓子を買ってあげたら“ありがとう”と言ってくれた」

「卒業式で息子がちゃんと返事をしていた」

そんな、その日あったことを一言だけ書く日記だ。

でも、その日は日記をどうしても書けなかった。

何も書くべきことを思いつけない。

仕事がうまくいった日。

家族で出かけた日。

大きなイベントがあった日。

そういう日はすらすら書ける。

でもその日は何も書けなかった。

思い返してみると、その日はただ仕事をして、ただご飯を食べて、ただ過ごした日だった。

『今日という日に、私は何も残せなかった』

それに気が付いた時、真っ白なページに全身が吸い込まれてしまう気がした。

人生のろうそくの炎が、ただ消えていく。

何もなかった日は、あとから思い返そうとしても、何の手がかりがない。

どんなに素晴らしい日も、思い出せないなら、何もなかった日と同じだ。

私は、褪せていく色へささやかな抵抗として、モノを残していたのだろう。

ひのきのぼうが捨てられなかった理由が、やっとわかった気がした。

あれは敵を倒すために残していた武器だったのではない。
旅の中の思い出を、忘れないための武器だったのだ。

私はこれからも、人生で出会う小さな『ひのきのぼう』を、ちゃんと見つけて集めながら旅を進めていかなければいけない。

そう思った。

〈終わり〉

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