ストレートで戦うな、路面を選べ。——企業が戦わずして選ばれる方法とは《週刊READING LIFE Vol.365「私の生存戦略 」》
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:川瀬健二(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
七月の強い陽射しが、鎌倉の街を照らしている。
お寺の境内では蝉が鳴き始め、夏が本格的に始まることを知らせていた。そんな朝、スマホを開くと、いつものように「これからの時代を生き抜く方法」が流れてくる。AIを使いこなせ。市場価値を高めろ。誰よりも早く学べ。昨日まで価値があった知識は、すぐに古くなる。だから走り続けろ。そんなメッセージが絶え間なく流れてくる。
もちろん、それは間違っていない。変化の激しい時代に、学び続けることは大切だ。僕自身もAIを毎日のように使っている。新しい技術を学ぶことの価値を痛感している。けれど、どこか腑に落ちないものがあった。みんな同じ方向へ走っている。みんな同じ武器を手に入れようと、躍起になっている。
だから競争は、ますます激しくなる。新しいツールが登場すれば、みんなが使う。便利なAIが生まれれば、みんなが導入する。優れたノウハウが公開された瞬間に、あっという間に広まる。技術が普及すること自体は素晴らしい。しかし、その結果として起きることがある。「武器の同質化」だ。昨日まで差別化だったものが、今日には当たり前になる。すると人は、さらに新しい武器を探し始める。最後に終わりなき武装競争を制するのは、資本力のある大企業という図式だ。
この構造は、仕事だけではない。SNSもそうだ。マーケティングもそうだ。「他人より少しだけ優れた武器」を探すゲームに参加している限り、競争から降りることはできない。僕は経営者として長く仕事をしてきたからこそ、このゲームの息苦しさを何度も経験してきた。価格で勝負すれば、もっと安い会社が現れる。スピードで勝負すれば、もっと早い会社が現れる。設備で勝負すれば、もっと新しい設備が導入される。武器で戦う限り、その武器はいずれ誰かに追いつかれる。
では、本当に強い会社や人は何が違うのだろう。その答えを考えるとき、僕はいつも世界最高峰のモータースポーツを思い出す。レースでは、最先端のテクノロジーが投入される。シミュレーション、データ解析、空力設計、タイヤマネジメント。どのチームも莫大な資金を投じながら、技術を磨いている。そして時代が進むほど、その技術は少しずつ標準化されていく。昨日まで一部のチームしか持っていなかった技術が、数年後には誰でも使えるようになる。この構図は、AI時代のビジネスとよく似ている。
ところが、その中でも毎年のように結果を残すチームがある。彼らは、ストレートで最高速を競うことだけを考えていない。雨が降ったとき。路面温度が急激に下がったとき。タイヤの性能が極端に変化する状況。誰もが「難しい」「リスクが高い」と避けたがる条件を、徹底的に研究する。つまり、武器そのものではなく「どこで戦うか」を変えているのだ。
ここまでは、多くの経営書にも書かれている。ニッチな市場へ行け。競争の少ない市場を探せ。ポジショニングを考えろ。それは確かに正しい。しかし、現実はそんなに単純ではない。実際のレースでは、雨用のセッティングを作っただけでは勝てない。そのマシンを操るドライバーが、雨の路面を走り切る技術を持っていなければ意味がないからだ。濡れたアスファルトは、一周ごとに表情を変える。タイヤが温まれば、速度も変わる。水たまりの位置だって変わる。アクセルを踏むタイミングも、ブレーキを残す感覚も、乾いた路面とはまったく違う。どれほど優れたデータがあっても、最後に頼りになるのは、人間の感覚なのだ。
戦う場所を変えることは重要だ。しかし、それだけでは勝てない。その場所で誰よりも技術を深く磨いて初めて、人は競争から自由になれる。この当たり前のようでいて見落とされがちな事実を、僕は家業の印刷会社で何十年にもわたって見続けてきた。印刷会社に戻った頃、僕は「薄紙」という世界の奥深さを、まだ十分には理解していなかった。印刷機は最新のものへ更新されていく。制御システムも年々進化する。インクの品質も向上する。メーカーは「これまで以上に安定して印刷できます」と、新しい技術を次々に提案してくれる。そのたびに僕は思っていた。これだけ技術が進歩すれば、印刷技術も同質化していくのではないか、と。
しかし、現場はまったく違っていた。普通の紙なら問題なく印刷できる条件でも、薄紙だけは別世界だった。辞書や保険約款、医薬品の添付文書に使われる超軽量紙は、ほんの少しの環境変化で別の素材のように振る舞う。湿度が上がれば、紙はわずかに波打つ。乾燥すれば静電気を帯びる。普通紙では何事もなく通過する工程が、薄紙では一瞬で事故につながる。紙が重なる。破れる。印刷機の中に巻き込まれる。最新の印刷機だから失敗しないわけではない。むしろ、最新の機械ほど、その性能を引き出す人間の技術が問われる。現場のオペレーターは、そのことを誰よりも知っていた。印刷機の前に立ち、機械の音に耳を澄ませる。
「今日は少し音が重いですね。」
そんな一言から、調整が始まる。僕にはその違いが全く分からない。しかし、長年その機械と向き合ってきた職人には分かる。湿度が高い日の音。乾燥した冬の日の音。紙がわずかに暴れ始めた音。異常になる手前の音。数字には表れない、ごくわずかな変化を身体で覚えているのである。紙を持ち上げる手つきも同じだ。一枚の紙を指先でつまみ、そのしなり方を見る。インクを少し指先につけて、粘りを確かめる。機械へ送り込まれる風量を、コンマ数ミリ単位で調整していく。その姿を見ながら、僕は何度も思った。これは機械を動かしているのではない。彼らは紙と対話しているのだ、と。
ここにはマニュアルがない。その日の気温、湿度、紙の状態、インキの硬さ。それらを総合して判断する。同じ条件の日は、一日として存在しない。だから毎日が本番だ。ここで僕は、F1の世界とまったく同じ構造があることに気づいた。どちらも最新のテクノロジーを使っている。どちらも大量のデータを分析している。どちらも高度な設備を備えている。しかし、それだけでは勝てない。最後に差を生むのは、人間が積み重ねた技術なのだ。
だから僕は、技術という言葉を少し違う意味で考えるようになった。技術とは、単に手先が器用であることではない。経験を重ねることでしか身につかない「判断力」である。どのタイミングで止めるのか。どこまで攻めるのか。今日は何を変え、何を変えないのか。その一つひとつを決める力が技術なのである。そして、その技術は、一朝一夕では身につかない。何千回も失敗し、やり直しを繰り返した人だけが手に入れられる。だから簡単には真似されない。AIが進化しても、競合が最新設備を導入しても。その判断力だけは、買うことができない。
ここで初めて、僕は父がなぜ薄紙にこだわり続けたのかを理解した。薄紙は、市場として決して大きくはない。利益率だけを見れば、もっと効率のいい仕事はいくらでもある。それでも父は、その世界から離れようとはしなかった。当時は頑固なのだと思っていた。しかし今なら分かる。父が守ろうとしていたのは、商品ではなかった。「簡単には真似されない時間」だったのである。十年、二十年、三十年。毎日積み重ねた技術は、設備投資では追いつけない。それは会社の財産である以前に、人間の財産だった。だから全国のお客様は価格だけで判断しなかった。
僕たちは誰かに勝ったわけではない。ただ、誰も入ってこようとしない土俵で、誰よりも深く技術を磨き続けただけだった。「戦わずに選ばれる」というのは、決して楽をすることではない。むしろ逆である。誰も見ていない場所で、十年、二十年と技術を磨き続けるのは、想像を絶する根気がいる。けれど、積み重ねた時間は決して裏切らない。戦略が自分だけの土俵をつくる。技術がその土俵を誰にも渡さない。その二つが重なったとき、人は初めて価格競争ではなく、「御社にお願いしたい」という指名で選ばれるようになる。そして僕は、この原理は印刷業だけの話ではないと考えている。今、AIによってあらゆる仕事が大きく変わろうとしている時代だからこそ、この「戦略と技術の掛け算」は、すべての仕事に共通する生存戦略になっていくのではないだろうか。
印刷会社を経営していて、僕はあることに気づいた。薄紙印刷を求めてくださるお客様は、決して「日本で一番安い会社」を探していたわけではない。「日本で一番速い会社」を探していたわけでもない。求められていたのは、もっと単純なことだった。「この仕事だけは、安心して任せられる会社」を探していたのである。その違いは、とても大きい。価格競争の世界では、「もっと安く」が終わることはない。スピード競争の世界では、「もっと早く」が終わることもない。設備競争の世界では、「もっと新しく」が永遠に続く。しかし「あなたにお願いしたい」という世界には、比較そのものが存在しない。そこでは価格が消える。競争が消える。敵も消える。残るのは、信頼だけなのだ。
もちろん、それは簡単な道ではない。「誰とも競争しなくていい」という言葉だけを切り取れば、とても心地よく聞こえる。けれど実際には、その反対だ。誰とも競争しないためには、誰よりも深く掘らなければならない。僕が一番伝えたかったことは、「ニッチを狙え」ということではない。ニッチ市場は、市場調査だけで見つかるものではない。本当に価値が生まれるのは、自分が選んだ場所を、長い時間をかけて掘り続けたときだと思う。
考えてみれば、AIも同じだ。ChatGPTを使える人は、これからますます増えていくだろう。文章を書く。企画を考える。情報を整理する。そうした能力は、急速に普及していく。つまり、武器は再び平等になる。十年前にExcelが使えることが強みだった時代が終わったように、数年後には「AIを使えること」そのものは、特別な価値ではなくなっているかもしれない。
だからこそ、AI時代に本当に問われるのは「何を使うか」ではなく、「何に使うか」なのだ。同じAIを使っても、人によって生み出される価値はまったく違う。なぜなら、その違いを生み出しているのはAIではなく、その人がこれまで積み重ねてきた経験だからだ。印刷会社で三十年、紙と向き合ってきた人がAIを使う。料理人がAIを使う。医師がAIを使う。学生がAIを使う。同じ質問を入力しても、返ってきた答えをどう読み解き、どう磨き上げるかは、それぞれまったく違う。つまり、AIは経験を代替するものではない。経験を増幅する道具なのである。
だから僕たちは、AIに仕事を奪われることばかりを恐れる必要はない。むしろ恐れるべきなのは、自分自身の経験を積み重ねることをやめてしまうことだ。どれほど優れた道具を手にしても、それを扱う人間が深く育っていなければ、結果は誰かと同じになる。反対に、一つの仕事を十年、二十年と磨き続けてきた人は、新しい道具を手にした瞬間、その経験が一気に花開く。技術とは、手先の器用さではない。時間なのである。そして時間だけは、お金で買えない。AIでも生成できない。誰かから譲り受けることもできない。だから価値がある。
ここまで読んでくださったあなたへ、最後に一つだけ提案したいことがある。明日、仕事を始める前に、ほんの五分だけ時間を取ってみてほしい。ノートでも、スマホのメモでも構わない。まず、左側にこう書いてみる。「みんなが競争していること」 価格、スピード、フォロワー数、売上、知名度。思いつくものを、できるだけ正直に書き出してみる。
次に、右側へ書いてほしい。「自分は、何を磨くことなら苦にならないか」 人の話を最後まで聞くこと、文章を書くこと、数字を分析すること、現場へ足を運ぶこと、小さな改善を積み重ねること、お客様の困りごとを見つけること。人によって答えは違う。だからこそ面白い。
そして最後に、その二つを見比べてみてほしい。もし左側ばかりを磨いているなら、あなたは今、誰かが作ったゲームを懸命に戦っているのかもしれない。けれど右側に、自分だけが夢中になれるものがあるなら、そこにはまだ誰も見ていない道が眠っている。その道を選んだからといって、明日から成功するわけではない。むしろ最初は、遠回りに見えるだろう。成果も出ないかもしれない。周囲から「もっと効率よくやればいいのに」と言われることもあるだろう。それでも、十年後に振り返ったとき、その積み重ねだけは、決して裏切らない。
戦略は、自分が立つ場所を決める。
技術は、その場所で生き抜く力を育てる。
≪終わり≫
❒ライタープロフィール
川瀬健二(かわせけんじ)『READING LIFE編集部ライターズ倶楽部』
1898年創業の印刷会社にて4代目社長を12年間務め、現在は取締役会長。2027年新会社設立に向け、鎌倉の寺院に住みながら仏教哲学を勉強する日々。古くから伝わる生活の智恵、エシカルな暮らし、モノや想いの記憶を次世代へ繋ぐ事業を通じて、誰もがやさしく豊かに生きていける地域社会の実現を目指して奮闘している。また「サステナビリティ × 仏教哲学 × CSV(共通価値の創造)」をテーマに、企業の存在意義を再編集する独自のアプローチに取り組んでいる。
お問い合わせ
■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム
■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。
■天狼院カフェSHIBUYA
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00
■天狼院書店「京都天狼院」
〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00
■天狼院書店「名古屋天狼院」
〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00
■天狼院書店「福岡天狼院」
〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00







