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養生は引き算


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:美穂(ライティングゼミ・名古屋会場)

 

「日常生活で何か気を付けることはありますか?」

漢方の相談員という仕事をしていると、この質問に出会わない日はないと言ってもいい。体調の悩みを抱えて訪れる相談者に対し、漢方薬を提案するのはもちろんだがそれと同じくらいに大切なのが「生活上の養生(ようじょう)」のアドバイスだ。

 

漢方の知恵に基づく養生法には、現代でも役立つものがいくつもある。

  • 冷たいもの、生もの、甘いもの、油っこいもの、味の濃いものは控える
  • アルコールはほどほどにする
  • 夜更かしをせず、たっぷりと睡眠をとる
  • 適度な運動を日課にする

改めて文字にしてみれば、誰もが知っている当たり前のことばかりだ。

しかし、現代を生きる私たちにとってこの「当たり前」を実践することはどれほど難しいか。

なぜなら、私たちの日常は養生とは真逆の魅力的な誘惑で満ち溢れているからだ。

 

外食に出かければ、メニューに並ぶのは甘いもの、脂っこいもの、濃い味付けのオンパレード。仕事帰りにスーパーやコンビニに立ち寄れば、惣菜や冷凍食品、魅惑的なスイーツ、色とりどりのジュースやアルコールが視界を埋め尽くす。自炊をする気力が残っていない日、手軽に手に入る食べ物の多くは知らず知らずのうちに胃腸に負担をかけてしまう。

 

食事だけではない。私たちの周りには、パソコン、テレビ、そしてスマートフォンといった「時間を溶かす道具」が揃っている。

一度画面を開けば、次から次へと魅力的な動画やドラマが再生され、やめ時を見失う。

気づけば時計の針が深夜を回っていた、という経験はもはや日常茶飯事だろう。

 

運動にしてもそうだ。今は24時間営業のフィットネスジムが街のあちこちにあり、いつでも運動できる環境は整っている。しかし、疲れ切った身体でその扉を叩くには相当な意志の強さが必要になる。

 

「健康的な生活を意識しましょう」という言葉を提示するだけでは、人はなかなか行動を起こせない。養生の大切さを理解していても、実践にまでたどり着けないのだ。

 

なぜ、これほどまでに難しいのだろうか。

 

その答えを考えていたとき、ある有名な教授の講義動画を思い出した。

 

教授は、空のガラス瓶を取り出し、そこにゴロゴロとしたゴルフボールを限界まで詰める。そして生徒に尋ねる。 「この瓶はいっぱいか?」 生徒たちが「はい」と答えると、教授は次に小さな小石を取り出し、ゴルフボールの隙間に流し込んでいく。

「では、これでいっぱいか?」 生徒たちが頷くと、今度は細かな砂を取り出し、小石のさらに小さな隙間へと満たしていく。

そして最後に、教授はビールを泡立てながら注ぎ入れた。液体は砂の隙間に染み込み、瓶は本当の意味で満たされた。

この講義が伝えているのは、「時間の瓶」の使い方だ。人生において本当に大切なもの(=ゴルフボール)を、最初に瓶に入れなければならない。順番を間違えて小さな砂から入れてしまえば、本当に大切なものを入れるスペースはなくなってしまう。

 

そして、もう一つ重要な事実がある。 現代人の「時間の瓶」は、すでに隙間なくパンパンに詰まっているということだ。

仕事、家事、人間関係、SNS、動画鑑賞。ただでさえ満杯の瓶の中に、健康のためだからと「~してください」という新しい養生法(=新しいゴルフボールや小石)を追加しようとしても、入る余地など最初から存在しないのだ。

 

私はこれまで、良かれと思ってさまざまなアドバイスを提案してきた。しかし、いざそれを生活に取り入れられる人はごくわずかだった。そこでハッと気づかされた。現代人に必要なのは「足し算のアドバイス」ではなく、「引き算のアドバイス」なのだと。

 

「もっと早く寝てください」ではなく、

「夜のスマホを見る時間を15分減らしてみませんか」

 

「~してください」という足し算を、「~しないでください」「~をやめてみましょう」という引き算に変えてみる。

すると、パンパンだった時間の瓶から少しだけ砂がこぼれ落ち、そこに新しい隙間が生まれる。今まで夜遅くまでテレビやスマホを見ていた時間が減れば、その分のスペースに「睡眠」という一番大きなゴルフボールを戻すことができる。

 

自分の暮らしを整える第一歩は、新しい何かを始めることではなく、余計なものを削ぎ落とすことにある。

伝え方をほんの少し変えるだけで、それは「理想論」から「今日から実践できるリアルな工夫」へと変わる。

 

人はどの時代を生きていても、自分の「時間の瓶」を何かでいっぱいに満たしながら生きてきたと思う。 人力車や徒歩が移動手段だった時代と比べれば、現代は車や新幹線、飛行機があり、家事家電も進化して圧倒的に時間に余裕が生まれているはずだ。

しかし、「昔より暇になりましたか?」と現代人に尋ねても、誰もが「相変わらず忙しい」と答えるに違いない。

今後、AIやテクノロジーがさらに発達して、人間の仕事が減ったとしても、きっと私たちはまた別の何かで時間の瓶を埋めてしまうのだと思う。

だからこそ、意識的に引き算をしたい。

自分の大切な「時間の瓶」を、何で満たすのか。少しの隙間を作り出し、そこに心と体を健やかに保つための「本当に大切なもの」を落とし込んでいく。

そんな引き算の養生をこれからも伝えていきたい。

≪おわり≫

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