メディアグランプリ

朝七時三分


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:吉田倫子(ライティングゼミ・2026年5月開講)

 

朝七時三分。
今日もインスタに写真を一枚投稿する。
一日一枚。もう五年になる。上げるほどの写真がない日もある。それでも途切れることなく続けてきた。あの日、「負けた」と思った人が今も心に残っているからだ。

 

Aさんとは学生の頃、茶道教室で出会った。控えめで無口で、私とは正反対だった。私は何でも要領よくこなした。一方、Aさんは不器用だった。お手前の途中で何度も手が止まり、先生に注意されていた。当時の私は、そんな彼女をどこか見下していたのだと思う。

ある日の稽古だった。茶室には釜の湯が静かに音を立て、床の間には「和敬清寂」の掛け軸が掛かっていた。Aさんは、いつものようにぎこちなくお手前をしていた。茶筅を取ろうとした手が迷った、そのときだった。先生が立ち上がり、Aさんの頭を叩いた。

「違う」

ぱすっ、
手と布がこすり合う乾いた音がした。

ぱすっ、ぱすっ、
今度は背中。さらに腕。

「そうじゃない」

私は、ここにいていいのだろうか。見てはいけないものを見ているような気がした。「和」と「敬」を説く茶室で、先生が生徒を叩いている。私は目を伏せ、自分の存在をできるだけ消した。
Aさんは一、二度、静かに鼻をすするような気配を見せた。それでも茶杓を清め、茶碗にお湯を注ぐ。淡々と何事もなかったように続けていく。深い緑のお茶が入った茶碗を差し出すまで、Aさんの手は一度も止まらなかった。釜の湯の音だけが、低い泣き声のように聞こえていた。誰も息をする音さえ立てなかった。

それからしばらく、お茶の稽古を休んだのはAさん、ではなかった。
私だった。
何となく「少し休むだけ」のつもりで、お稽古場から遠ざかった。
ところが半年後、久しぶりに茶室へ戻ると、そこには別人のようなAさんがいた。茶碗を置く手は静かで、取る手はすっと軽い。お湯を注ぐ所作は、水が流れるようにつながっていく。
私が休んでいる間に、何がどうなったんだろう。
ただ、圧倒された。
負けた、と思った。
私が見ていたのは、お手前の上手下手だけだった。
私が半年休んでいる間も、Aさんは茶室に立ち続けていた。その半年は、決して埋められない時間だった。私の目の前にあったのは、積み重ねた時間そのものだった。

 

それからも、私たちは週一回の稽古を続けた。やがてAさんは就職し、結婚した。義父母と同居しながら、月に二度、片道二時間かけて茶室へ通っていた。

日曜日の朝、私が教室に着くと、いつもAさんは誰よりも早く来ていた。釜に水を張り、先生を迎える準備もすでに終えていた。私が隣に座ると、Aさんは笑いながら言った。
「今頃、お義母さんとお義姉さん、私の悪口バーッと言ってるわ」
私はつられて笑った。そのときは、その笑顔の向こうに、どれほどのものを抱えていたのか、気づいていなかった。そして、先生が来ると、何事もなかったようにお手前を始めた。あとになって先生から聞いた。二人目のお子さんに障がいがあり、午後から夜遅くまで働きながら子育てをしていたという。それでもAさんは稽古を休まなかった。

私は何も知らなかった。静かな立ち振る舞いの向こうに、そんな日々があったことを。あの揺るがなさは、いったいどこから来るのだろう。そう思わずにはいられなかった。

私も結婚し、子育てをした。毎日は目の前のことでいっぱいだった。「少し休むだけ」のつもりで、学生時代に打ち込んでいたピアノからも遠ざかった。また弾きたいと思ったときには、指はもう心の動きについていけなかった。お茶の先生に言われた「器用貧乏」という言葉が、胸によみがえった。やがて先生が亡くなり、その茶室も閉じられた。

そんな私が縁あってカメラを手にする。写真教室に通い始めて、一年ほどたった頃、なぜか先生との歯車が噛み合わなくなった。それからというもの、先生から理由も分からないまま厳しい言葉を向けられるようになった。教室では私だけ違う場所へ立たされることもあった。
「何か寄ってきよる」
「あんたはこっち」
教室へ向かう足が重くなった。行くのをやめようと思った日もあった。

そんなとき、あの茶室が浮かんだ。
「和敬清寂」の掛け軸。
釜の湯の音。
何も言わず、お手前を続けるAさん。

「少し休むだけ」の時間は取り戻せない。だから今日も、一日一枚。その積み重ねだけは、自分で手放さない。

 

朝七時三分。
今日もインスタに写真を一枚投稿する。
そして、私はカメラを持って家を出る。

季節が変われば光も変わる。
同じ道でも、昨日とは違う空気が流れている。
花は向きを変え、葉はその日の光を映している。

私は立ち止まり、ファインダーをのぞく。シャッターを切る。

今日、この瞬間にしかない光を、一枚の写真に収める。
昨日と同じように見える朝でも、同じ光は二度とない。一枚一枚は小さい。それでも、積み重ねた時間だけは誰にも奪われない。

あの日、「負けた」と思った人は、今も私の一歩先を静かに歩いている。

《終わり》

 

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00



■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



関連記事