“ちょっと”痛いですよ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:よもぎもちもち(ライティングゼミ 2026年5月コース)
「ちょっと痛いですよ」
血液検査で採血をするとき、私は必ずそう言う。決まり文句のように、口が勝手に動く。針を刺す前に、その一言だけは必ず言う。いつのころからだろう。研修医の頃からか、もっと後か、もう思い出せない。とにかく、ずいぶん長いこと言い続けている。
その日、担当した妊婦さんは、採血が苦手な方だった。いつも私の外来に来てくれている、初めて妊娠した若い女性だ。健診で必要だったのだが、採血することを伝えると、露骨に身構えている。たまたま看護師さんが忙しく、他の患者さんも待たせているので、仕方なく私がやることにした。
「利き手はどちらですか?」
利き手を確認して、それとは別の腕を出してもらう。血管を探し、消毒をする。その間も、妊婦さんは「はぁ~」とか「ふぅ~」とか、まるで失敗するなと言わんばかりに嫌そうな顔をしている。いや、あなたのためだからね。妊婦健診なんだから。一瞬そう思ったが、言葉には出さずに、注射器を持つ。
見つけた血管に狙いを定め、
「ちょっと痛いですよ~」
言ってから、針を進める。
「ううっ」
針が皮膚に触れた瞬間、妊婦さんが痛そうな顔をして、今にも叫び出しそうになる。だが、針はもう刺さってしまっている。ここでやめたら、また一からやり直しだ。どんなに暴れられても、落ち着かせながら続けるしかない。
「落ち着いてください。ゆっくり深呼吸して。もうちょっとで終わりますのでね」
「まだ? まだ? 全然ちょっとじゃないです」
やや半狂乱で叫ぶ妊婦さんをなだめ、なんとか採血を終えた。
ほっとしたのも束の間、その妊婦さんは、今度は落ち着いた声で、こう言った。
「先生、全然“ちょっと”じゃなかったよ」
自分では気の利いた口癖くらいに思っていたのに、あんなに嫌そうに突き返されるとは。その日から、病院で聞こえる「ちょっと」という言葉が、やけに耳につくようになった。
それから数日経ったある日のことだった。その日も妊婦健診をしていると、隣の診察室から、聞き慣れた声がした。外来を担当のその助産師さんは、妊婦さんに本当に親身になってくれる人だ。自分の出産の経験と助産師としての経験をうまくブレンドして、妊婦さんに寄り添い、的確なアドバイスをしてくれる。
その日もいつも通り外来をしていたようだが、途中で急な用に呼ばれたのだろう。対応していた妊婦さんへ、こう言った。
「ちょっとだけ待ってくださいね」
また「ちょっと」だ、と思いながら、どのくらい待たせるんだろう、と健診を続けつつ聞いていると――待たせていた時間は、およそ十五分。
念のため、言っておくと、彼女はサボっていたわけではない。別の妊婦さんへの対応に、思った以上に時間がかかっただけなのだ。それにしても、「ちょっと」にしては、待たせすぎだ。
ああ、「ちょっと」が口癖なのは、私だけじゃなかった。そのとき初めて気がついた。
気になり出すと止まらない。「ちょっと隣の部屋に移動してくださいね」「これからちょっとだけ診察しますね」。私も、助産師さんも、看護師さんも、みんな口癖のように「ちょっと」と言っている。この病院だけなのだろうか。別の病院で当直したとき気にして聞いてみると、そこのスタッフも、やはりよく使っていた。
こうなると、もう私の口癖の問題ではない。「ちょっと」とは、いったい何なのだろう。
気になると調べずにはいられない私は、とりあえず「ちょっと」を辞書で引いてみた。少しの量や短い時間を指す、とある。それから、依頼をやわらげる働き。「ちょっと名前を書いてください」の「ちょっと」は、量ではなく、相手の負担を軽くする言葉なのだという。
なるほど、と思う。移動や待機の「ちょっと」は、たしかにそれだ。相手の負担を、そっと軽くする言葉。採血で刺す瞬間に言うのも、「いきますよ」という合図なのだと思っていた。
でも――と、私は引っかかった。合図をするだけなら、「いきますよ」でもいい。負担をやわらげるだけなら、「少しだけ」でもいい。それなのに、どの場面でも、私の口はきまって「ちょっと」を選んでいる。なぜ、いつも「ちょっと」なのだろう。
試しに、「ちょっと」を使わずに採血することを考えてみた。
「少々痛いですよ」――丁寧すぎて、なんだかよそよそしい。
「痛いですよ」――これでは、痛いのが確定した宣告だ。
「……」――無言で刺すのは、こわい。
どれも、しっくりこない。他の言葉で採血する自分を想像すると、刺す瞬間に手が止まる。
患者さんに痛みを伴う処置をするとき、正直に言えば、私も少し痛い。針が患者さんの皮膚を破る瞬間、こちらの指先まで、かすかに痛むような気がするのだ。必要なことだとわかっていても、人に痛い思いをさせるのは、何度やっても申し訳ない。その申し訳なさが、刺す時の一瞬、胸をよぎる。
「ちょっと」と言うと、それが、すこしだけ和らぐ。
「ちょっと」は、妊婦さんのための言葉だと思っていたけれど、この言葉は、実は自分を守るための免罪符なのかもしれない。と、私はちょっとだけ思った。
〈終わり〉
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