メディアグランプリ

紙一重


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:吉田倫子(ライティングゼミ・2026年5月開講)

 

「今日から開店です。どうぞ〜」

節分が過ぎたばかりの寒い朝だった。店先で差し出された小さな紙コップを受け取る。まだ少しだけ温かい。そして、琥珀色の液体を一口飲む。

「あ、好みかも」

気づけば店の中にいた。
思えば、それが淡い恋の始まりだった。

ショーケースには、老舗和菓子屋の季節の生菓子が並んでいる。デパ地下では眺めるだけだった生菓子を、ここではコーヒーと一緒に楽しめる。私が選んだのは、うぐいす餅と浅煎りのコーヒーだった。

これは、ずるい。

うぐいす餅は、「ホー、ホケキョ」の初音を待ちわびるような淡い黄緑色。コーヒーはフルーティーで、喉の奥までキラキラするような透明感がある。どちらも春の気配を運んできた。

和菓子とコーヒー。
本来なら別々の世界にいるはずの二人が、ここでは不思議なくらい馴染んでいた。私はこの二人に会うため、気づけば、少し遠方にあるこのお店に行く理由を探していた。
「今日はどんな和菓子だろう」
ショーケースをのぞく時間まで待てなくて、ホームページをのぞいてみたりもした。

それは普段の生活では見過ごしがちな自然の移ろいを知らせてくれるお便りのようでもあった。うぐいす餅を味わった今年の春は、めったに耳にすることのなかったウグイスの「ホー、ホケキョ」に気づくことができた。

そして、近くに来る際には、必ずこの店を訪れるようになった。

七月。
透明な葛の中に七夕の短冊や星を閉じ込めた生菓子が並んでいた。涼しげで、どこか彦星と織姫の淡く切ない恋まで感じさせる。

期待を裏切らない。いや、期待を上回る。

生菓子に添えられるのが抹茶ではなく、コーヒーというのも新鮮だった。少し背筋を伸ばす茶室ではなく、いつもの日常の中で、季節の移ろいを味わえる。そんな距離感も好きだった。

そして、八月。
朝からギラギラと太陽が照りつける。少し歩いただけで汗びっしょり。そんな日は、あの店のフルーティーなコーヒーが恋しくなる。少し遠回りになるのに、自然と足が向いていた。

汗を小さなタオルでぬぐいながら、カウンターの前に立つ。

あれ?
ショーケースに、いつもの和菓子がない。
まだ届いていないのかな。

店員さんに、
「和菓子、今日はまだですか」
と声をかけると、
「あ、来てますよ」
奥から運んできてくれた。
「はあ、よかった」
私はほっとした。もしなかったら帰ろうかと思っていたほどだ。

「どれになさいますか」
ずらりと並んだ生菓子を前に、目が迷う。
小さな宝物が、いくつも並んでいるようだった。
どれも職人の手の中で、季節の一瞬を閉じ込められている。

その中の一つに目が留まった。夏木立を葛で包み込んだような半透明の生菓子。涼しげで、真夏のうだるような暑ささえ忘れさせてくれる。

「これ、お願いします!」

今か今かと待っていると、コーヒーと和菓子が乗ったトレーが運ばれてきた。

うん? 何かが違う。
いつもの「うわあ!」が、来ない。
頼んだものはすべて目の前に置かれていた。
いつもなら思わず顔がほころぶ瞬間のはずなのに、少しも心が弾まない。

席につき、眺める。

コーヒー。
和菓子。
その和菓子が、心なしかしょんぼりして見える。

もう一度、少し近づいて眺める。
ああ。紙だ。
和菓子の下に敷かれているはずの、一枚の白い和紙でできた懐紙がない。

改めて見比べてみる。

洋皿の白は、つるりとしている。
懐紙の白は、やわらかく光を吸い込んでいる。
今日は、まぶしいほど白いお皿の上で、和菓子はどこか居心地が悪そうに見えた。

そんなことで?自分でも、そう思った。

たかが紙一枚のことだ。それなのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。

ふと、今までこの店で口にした和菓子が浮かんできた。

春の芽吹きを感じさせる淡いうぐいす色。
七夕の涼しげな緑。

季節ごとに表情を変えるその緑は、いつも白い懐紙の上でやさしく息をしていた。

そうか。あの一枚には意味があった。ただ敷いてあったわけじゃない。和菓子をきれいに見せるためだけでも、皿を汚さないためだけでもなかった。
「どうぞ」
その一枚は、そう語りかけていた。
私はその一枚ごと、この店の心を味わっていたのだ。

なるほど、と胸の中で納得してから、和菓子を切り分け、口に運ぶ。

あれ? なぜか、いつもより「おいしい」が遠い。
餡の甘さだけが妙に舌に残る。
ああ。きっと私は舌だけで食べていたんじゃなかった。目で見て、季節を感じて、想像の中で味を膨らませていたんだ。

今日は、その向こうに季節が見えなかった。

店を出ても、まだがっかりを引きずっていた。ほんの紙一枚がなかっただけなのに。
そういえば、お客さんがたくさん並んでいた。忙しかっただけなのかもしれない。

この店に恋したきっかけは、透明感のあるフルーティーなコーヒーの味だと思っていた。
でも、違った。

私が恋をしていたのは、
季節を映す和菓子と、
コーヒーと、
その間に、そっと敷かれた一枚の懐紙。

そこにあったのは、
一枚の紙に込められたこのお店の心だった。

おいしいだけの店と、また行きたくなる店。
それは紙一重だった。

《終わり》

お問い合わせ


■メールでのお問い合わせ:お問い合せフォーム

■各店舗へのお問い合わせ
*天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


■天狼院カフェSHIBUYA

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前6丁目20番10号
MIYASHITA PARK South 3階 30000
TEL:03-6450-6261/FAX:03-6450-6262
営業時間:11:00〜21:00



■天狼院書店「京都天狼院」

〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5
TEL:075-708-3930/FAX:075-708-3931
営業時間:10:00〜22:00


■天狼院書店「名古屋天狼院」

〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-5-14先
Hisaya-odori Park ZONE1
TEL:052-211-9791
営業時間:10:00〜20:00


■天狼院書店「福岡天狼院」

〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL:092-518-7435/FAX:092-518-4149
営業時間:
平日 12:00〜22:00/土日祝 10:00〜22:00



関連記事