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音だけが生きる世界で-八ヶ岳-


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:松原大修(ライティングゼミ5月開講)

 

私は、毎年1、2回八ヶ岳を訪れる。

写真を撮るため、温泉に入るためでもある。でも、それだけじゃない。

あの場所では、他の場所では決して聞くことのできない“自然の音”がある。

雨が葉を叩く音。湿った土を踏みしめた時の音。風が木々を吹き抜ける音。鳥のさえずり

でさえも、静けさと合わさって森の中へ溶けていく。

 

 写真家として活動している私は、どこへ行くにも必ずカメラを持っていく。

旅先では、シャッターを何枚も切る。「パシャリ」とシャッターが鳴るたび、その場の景色が空気と共に切り取られ、見返した時に記憶が蘇ってくる。しかし、不思議なことに、八ヶ岳で一番鮮明に思い出せるのは、一枚の写真でもなければ、一枚の風景でもない。

 記録することのできなかった“音”だけが、今も、私の中に残っている。

 

 ある年の夏、私は、好きなアーティストの青葉市子さんのライブを聴くために八ヶ岳音楽堂を訪れた。ライブ会場は八ヶ岳の森の中。行く途中の道も、田園風景が広がるだけ。

会場に近づくにつれて、森が深まっていって、周りは鳥の鳴き声と、風の音しかしない。その日、都会の気温は30度を超えていた。けれど、八ヶ岳は長袖でも風邪を引きそうなくらい冷たい風が吹き、雨が降っていた。普通なら、「せっかくのライブなのに雨なのかよ」と残念がるかもしれない。しかし、雨が降っていたことを恨むような人は誰もいなかったように感じる。むしろ、雨さえも、冷たい風さえも、この日の演出の一部かのような気がしていた。

 

 歌が始まる。

青葉さんの声は、森に向かって、会場の柱に反響して静かに溶けていく。

風が「サァ」っと、私の頰を撫でていく。風に合わせて葉がサラサラ揺れる。会場の屋根に降り積もった雨が「ポトポト」と落ちる音が後ろの方から聞こえる。

そのどれもが音楽になっていた。青葉さんの曲を邪魔するわけではない。一緒になって、溶け合わさっていた。

 私は、その光景を見ながら、不思議な感覚になっていた。周囲から、鼻をすする音が聞こえてきた。青葉さんは演奏の合間に、「今日は、あいにくの雨ですね。開演前から雨降っていたので、せっかくだから後ろの窓開けてもらいました。雨音も、八ヶ岳の自然の声も、風の音も、鳥たちのさえずりも、みんなと一緒に歌いたいなって」と言った。

この人にとって自然の音は、歌を邪魔するものではない。風も、鳥の声も、雨音も、全て音楽の一部なのだ。

 

 私も、写真を撮るとき、その場の出来事だけを写すことはしない。

“その場の空気や匂い、音や流れる時間までも1枚の写真に封じ込める“そう思ってシャッターを切っている。

この感覚は、同じ写真家同士で話していても共感されることは少なかった。だから、ずっと自分だけの感覚で、間違った方向へ進んでいるのかもしれない。そんな気がしていた。

けれど、雨音さえ、演奏の一部として受け入れている姿を見ているうちに、その場に流れていた音もまた、思い出の一部になるのだと気づいた。

 

私は、記憶を“視覚”で表現する。でも目の前の青葉さんは、記憶を“音”で表現している。

表現方法は違えど、同じ風景を見ている人と初めて出会えた気がした。

 

 青葉さんが歌い終わった後、最後に残ったのは、「ザー、ポトポトポトポト」という、雨音だけだった。私は、ライブが終わった後、会場が閉まるまでずっと椅子に座ったまま動けなかった。しばらく放心状態だったのだろう。

 

 森を歩き、駅へ向かい、帰り道にいつも立ち寄る寿司屋へ入った。

大将は、私の顔を見てすぐ、「むっちゃ幸せそうやな」と笑顔で話しかけてきた。

「そうですか?いつも通りな気がします」と返したものの、寿司ネタが入るショーケースのガラス越しに映った自分の表情は、どこか笑っているような気がした。

 

 あれから時間が経った今でも、八ヶ岳を思い出すと、最初に浮かぶのは「幸せだった」という言葉である。ライブが良かったからではない。八ヶ岳が美しかったからでも、自然の音が綺麗だったからでもない。ずっと、自分だけが見ている景色だと思っていた。

でも、同じ景色を見ている人がちゃんといた。

 

 以前、青葉さんは自身がMCを務めるラジオで、「歌は、その時の記憶を思い出させてくれる。楽しかった記憶も、辛かった記憶も全部」と話していた。

あの日の雨音を思い出すたび、その言葉の意味が少しだけわかる気がする。

 

写真では残しきれないものがある。音だけでも伝えきれないものがある。

あの日の雨音が、今も私の中で静かに鳴り続けている。

 

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