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看取りの夜に聞いた、「せいせいした」の意味


 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

記事:國分厚彦 (ライティング・ゼミ、2026年5月開講・渋谷、4ヶ月コース)

 

「19時35分、ご臨終です」薄暗い部屋の中に、指導医の厳かな声が響き渡った。

ベッドサイドに横たわる老婆は、穏やかな表情をしていた。3日前に訪問した時には、言葉少ないながらも会話はできていた、もうすぐ90歳の誕生日も近かった女性だ。

唯一の家族だった息子は、肉親が亡くなったのに、どこか晴れやかな顔をしていたように見えた。「面倒くさいのがいなくなって、せいせいしました」と語っていた。

米農家を一人で営んでいると言う彼は、3日前に訪問したときにも憎まれ口を叩いていた。

 

 

「臨時往診、お看取り、お疲れ様でした。どうでしたか」

 

病院へ帰る車中で、指導医は医学生だった僕に問いかけた。車のヘッドライトが夜を切り裂き、道の両脇に刈り取られた稲穂が見えた。

問いにどう答えたかは、はっきりとは覚えていない。ただ、息子様の言葉をそのままの形で捉え、「母親は邪険にされていたのではないか」というニュアンスの回答をしたような気がする。

しばしの沈黙の後、指導医は重い口を開いた。

「彼は、やり切ったって言う感じでしたね」心なしか、いつもより少しだけ熱を帯びていた。

その後どんな会話をしたかは覚えていない。しばらく「面倒くさいのがいなくなってせいせいした」という言葉と、指導医の「やり切った」という言葉が、脳内でリフレインしていた。

「面倒くさいのがいなくなった」「せいせいした」「やり切った」

盆暗学生だった僕には、その言葉の意味は理解できなかった。

 

 

 

僕は、人生の節目節目で、近しい人間の死を体験している。5歳の時に僕を可愛がってくれた曽祖父が亡くなり、子供ながらに死というものがどんなものなのかを知らされた。

 

「死とは2度と誰にも会えなくなること。命が止まってしまうこと」

「いずれ自分も死ぬ、楽しかった日々はいつか消えて無くなる」

 

子供ながらにそう感じた僕は、母親に「死ぬってどんなこと?」「自分が今死んだらどうなるの?」と繰り返し聞いていた記憶がある。それ以降、死というものがどういうものなのかが、自分の中で大きな興味となっていた。

 

 

医学部に入った大学1年生の時だった。祖父が、肺癌に罹患した。87歳というのに、手術を行い、懸命に戦い抜いたが、最後は肺炎を合併して、亡くなった。その過程を、僕は、何もできない、ただただ傍観することしかできなかった。医学部に入ったのに、ただ無力な自分が情けなかった。

祖父が亡くなった後、あまりの悔しさで十日十晩泣き続けた。悔しさのあまり、泣きながらmixiに「2度と自分の周りの人間は死なせない」と書き込んだことを、昨日のことのように覚えている。

祖父の死は、僕の心に炎症を起こした。元気だった人間が、癌になってから、わずか数ヶ月のうちに死んでいく衝撃。その様をただ傍観するしかない無力さ。いろいろな感情が心の中で炎症を起こし、治癒した頃には、「死への忌避感」が瘢痕となっていた。「母親を邪険にしていた」なんて感想も、忌避感の現れかもしれない。

 

 

月日は流れ、僕はいつしか研修医2年目になっていた。医者として、人が亡くなる場面に何度も立ち会わせていただいた。自分の担当患者の死も経験し、看取りも何度か経験した。

いくつもの命が僕の無力な掌からこぼれ落ちていき、やっと全ての人間を救う、僕の患者は誰一人死なせないという考えは、ただの傲慢な思い込みだということに気がついた。同時に、医者として現場慣れし、いくらか死への忌避感も薄らいでいった。

ただ、一人の人間としては、死への忌避感は払拭できていなかった。ちょうど僕が研修医になった頃、祖母がALSを発症し、徐々に、しかし確実に身体が衰弱し、年を越せるかどうかと言われていたが、忙しさを理由に、一度も見舞いに行かなかった。

12月のある日曜日、僕は地域研修のローテートで、苫小牧市にいた。ぶらぶらと市内の市場を歩き、海鮮に舌鼓を打っていた時、母から一本の連絡がきた。

 

「ばあちゃん今日明日で亡くなりそう。すぐ帰ってきて」

 

流石にまずいと思い、急いで祖母のいる老人ホームへ駆けつけた。

ベッドで横たわる祖母は、元気だった頃の面影もないほどにすっかり痩せ細っていた。肺炎を合併しているのか、呼吸するたびにゴロゴロと痰が絡む音が聞こえた。もう長くないというのは、臨床経験の浅い僕でもわかった。

 

その日の晩、家族の誰かが泊まり込みで付き添うこととなった。会議の結果、

父が「内科になるんだし、今晩お前が付き添え」とのことで、僕が付き添うこととなった。

こうして、一晩祖母の介護が始まった。有料老人ホームとはいっても、モニターも一通りついており、まるで急性期病院の患者のようだった。もはや、付き添いと言うよりも、「担当患者一人の当直」である。

家族としてではなく、医者として、一晩祖母に付き添うこととなった。

 

暖色の間接照明が薄暗い部屋を照らしていた。祖母がゴロゴロと不穏な呼吸音を鳴らしながら、ベッドで横たわっていた。

「あ……」

祖母が机上の飲水ポットの方を見て、言葉を発そうとしていた。僕は何も言わず、口元に持っていった。誤嚥すると大変なので、少し口を湿らせる程度である。

「あ……あ……あ……」

祖母がか細い声で、机の上にある挨拶ボードを指し示した。

『こんにちは』『どういたしまして』『ごちそうさま』などのボードの上に、『ありがとう』と書かれたボードが置いてあり、それを指し示していた。

僕は『ありがとう』と書かれたボードを取って、祖母に見せたら、嬉しそうに僅かに頷いていた。僕もつられて「どういたしまして」と答えた。

 

それから、30分ごとに祖母が水を欲しがり、その度に僕が給水ポットで水を含ませ、祖母が『ありがとう』のボードを見つめることを繰り返した。僕は、これが一晩のみでなく、延々と続くとしたら、それはとてつもなく大変なことなのだろう、と思った。

 

そのまま、夜は更けていき、一度だけ酸素飽和度が下がることがあったが、施設職員の手を借りて酸素濃度を調整して事なきを得て、朝5時に父と交代した。

 

父に交代してから数時間後、祖母は亡くなった。爽やかな冷気に包まれた、冬晴れの日の朝だった。

「ALSの患者さん、自分で言葉を発するのが大変なので、簡単な挨拶ボードを作っているんですが、お祖母様はいつも『ありがとう』と仰られるので、急遽『ありがとう』ボードを作ったんですよ」介護職員さんが祖母のエンゼルケアをしながら、そんなことを言っていた。

白い布の下は穏やかな顔をしていた。その姿を見て、なぜか晴れやかな心地がした。その時、ふとあの米農家の息子の顔を思い出した。あの息子は、この大変な介護の時間が、ずっと続いていたのだろうか。もしかしたら、それは面倒で、途方もなく大変なことだったかもしれない。

 

瞬間、あの時の「面倒くさいのがいなくなった」「せいせいした」「やり切った」という言葉が、頭の中で一つになった。もしかしたら「せいせいした」ってこういうことだったのかもしれない。そう独りごちて、結露で凍った車窓越しに、祖母の終の住処となった老人ホームを見つめた。

 

《終わり》

 

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