強欲さと賞味期限切れ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:仲西悠歌(ライティング・ゼミ5月開講)
「まだ一緒にいたいから、最寄り駅まで送る」
夕暮れ時の駅の改札前。彼が自然な足取りでついてきた。
嬉しかった。それなのに、口から出たのは驚くほど平坦で温度のない一言だった。
「あ、ありがとう」
それだけ。抑揚も愛嬌も削ぎ落とされた、まるで役所の窓口で書類を受け取ったときのような業務連絡トーン。
ほんの一年前、二十代の終わりまでの私なら、迷わずこう返していただろう。
「えっ、いいの? 嬉しい! まだ一緒にいられるの嬉しいし、帰り道にA君がいてくれるとすごく落ち着く。ありがとう!」
かつての私は、好意の直球ストレートを投げることに何の躊躇もなかった。相手が差し出してくれた好意を全身で受け止め、さらに倍の愛嬌を添えて投げ返す。「可愛子ぶる」 という振る舞いを、呼吸をするように軽やかに使いこなしていたのだ。
三十歳になって半年しか経っていないのに。一体この半年の間に何があったのか。思い当たる理由は、ひとつしかなかった。三十歳という節目を迎えたことで、「相手の思い通りになる自分」 を演じることに、心と身体が完全に拒絶反応を示し始めたのだ。
二十代の頃の恋愛は、もっと身軽だった。「好きだから、付き合う」。そのシンプルな熱量だけで十分に走ることができた。相手の言いたいことを先回りして言語化し、「A君のそういうところ、すごく良いと思うよ」と肯定してあげる。「私の前では自信をつけてほしい」と一生懸命に言葉を尽くすことすら、どこか楽しんでいた節がある。
元彼はよく、満足そうにこう言っていた。
「俺のこと分かりきって、全部言葉にしてくれるからなんか自信つくし、嬉しい。だからずっと俺の言うこと聞いててほしい」
その言葉を向けられたとき、何かが決定的に冷えてしまった。彼が求めていたのは私という一人の人間ではなく、自分の自尊心を満たし、肯定的な言葉を吐き出し、都合よく言うことを聞いてくれる「便利な存在」 に過ぎなかったのだ。そうやって相手の思い通りに動く装置としての役割を演じ続ける恋愛は、息苦しさの限界を超えて別れへと行き着いた。
三十代の恋愛における「嬉しい!」 「もっと一緒にいたい!」 という無邪気なリアクションは、相手に対する明確な青信号の点灯を意味してしまう。二十代ならその場の愛嬌で流せた言葉が、三十代になった途端、関係を進展させる契約書への仮サインのような重みを持つ。
付き合いたいとまでは、まだ踏み切れない。慎重に見極めたいし、少し距離を保って相手を観察したい。それなのに、私の中の別の欲望は、とんでもなく強欲でワガママで最低だった。
「付き合っていないけれど、その熱量をすべて行動で示してほしい」
「あなたの休日の予定、デートする相手はすべてを私が掻っ攫って独占したい」
付き合う責任は背負いたくないくせに、相手の時間は余すところなく奪いたい。 なんという傲慢で、勝手で、狡い大人だろう。自分の内側に潜むそのドロドロとした独占欲に気づいた瞬間、我ながら反吐が出るほど図々しいなと苦笑いしてしまう。
相手の好意を利用して無防備に甘えるのは、あまりにも不誠実だ。そんな狡い自覚があるからこそ、私は「嬉しい」 という無邪気な一言を喉元で必死にせき止めてしまったのだ。
結局、彼は私の最寄り駅の改札までついてきてくれた。ぎこちないお礼しか言えなかった私に対して、彼はいつも通りの優しい笑顔で「今日は本当に楽しかったね」「貸してくれた本、ちゃんと読むね」と、たわいもない言葉をかけてホームで見送ってくれた。
彼のその瞳を見ると、自分の幼さと狡さを恥じた。
かつて軽やかに振る舞えていた「可愛げ」 は、完全に賞味期限切れを迎えたのだ。 無理に二十代の頃の「可愛子ぶる技術」 にしがみつく必要はない。そしたらどうしたら彼の心を奪えるんだろう。
そんなことに悶々と悩んでいたとき、恋愛リアリティ番組を観ていてハッとさせられる女性がいた。
彼女は、分かりやすい愛嬌を振りまいて男心を翻弄したり、過剰に甘えて気を引いたりはしない。感情の起伏で相手を揺さぶることもなく、常にどこか凪のようにフラットで、精神的に自立している。相手に媚びず、かといって過剰に突き放すこともない。その圧倒的な情緒の安定感と大人の余裕があるからこそ、男性側が自然と心を開き、「この人といると落ち着く」 と引き寄せられていくのだ。
かつて目指していたのは、愛想よく尻尾を振って相手を喜ばせる分かりやすい「可愛げ」だった。けれど今、私が本当に手に入れたいのは、誰の前でもペースを崩さず、静かにどっしりと構えていられるあの安定感だ。
感情の起伏で相手を揺さぶらない、圧倒的な情緒の安定。媚びることも過剰に追わせることもない、フラットで対等な距離感。無理に可愛子ぶらないのに、ふとした瞬間に滲み出る大人の色気と受容力。
相手の時間をすべて掻っ攫って独占したいという強欲さは、もう手放そうと思う。無駄に甘えて相手の時間を奪うのではなく、お互いの時間や生活を尊重し合える対等な関係を築くこと。それこそが、三十代になった私たちが手に入れるべき本当のパートナーシップなのだ。
あの改札口で言葉を飲み込んだ瞬間は、ただの「可愛げの喪失」 だと思っていた。けれど、安売りするような愛嬌を手放し、大人の安定感へと舵を切るための必要な痛みだったのだと腑に落ちた。
安易な「可愛い女」 をやめた私の前に、ようやく新しい関係性の扉が開いた気がする。 感情を振り回さず、媚びもせず、どっしりと自分の足で立ちながら、目の前の人と丁寧に向き合っていきたい。
今度は私の方から、彼をデートに誘ってみようと思う。
……。なんて綺麗にまとめようとしているけれど、本音を言えば、まだ責任も取れないくせに彼の心を丸ごと奪いたいと思っている自分がいる。
まったく、どこまでも強欲で、最低だ。
だけど、そんな自分と折り合いをつけながら「責任」 についてこれからゆっくり考えてみるね。
<<終わり>>
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