私を救ってくれたのは落語だった
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記事:九埜由里江(ライティング・ゼミ日曜コース)
「22時間30分なんだって」
新宿にある寄席、末廣亭の木戸から外へ出ながらNちゃんが言った言葉が、私にはどういう意味だか分からなかった。
「なんのこと?」
「人生を80年とした場合に、人が『笑って』いるのって、平均すると22時間30分なんだってよ。思ってる以上に短くない? 今日1日で、きっと1年分は笑ったね」
と微笑みながら言うNちゃんをみつめながら、私は胸がいっぱいになった。
元々この日は、目黒川沿いの桜を楽しもうと、Nちゃんと1年ぶりに約束したのだった。
午前10時に恵比寿で待ち合わせて、満開の桜を楽しむために目黒川へ向かった。私もNちゃんもイケる口なので、屋台で買ったクラフトビールを飲みながら、最初はお互いの近況報告をしていたのだが、いつの間にか中瓶2本を空けてた私たち……。
実はこの頃の私は、年末に家人へ切り出した離婚話が流れて、やり直すことになって半年ほどたったころだった。一度ギクシャクした関係は修復できず、半年の間ずっと、家でくつろぐことができない状態にいたのだ。けれど、久しぶりに会う友達に嫌な話は聞かせたくない、無用な心配はさせたくないと思い、伝える近況は、仕事の話や子供の話でお茶を濁していた。そんな妙な精神的緊張状態にビールが2本入ることによって、いつの間にか言うつもりのなかった話しをし出す自分がいた。
去年の11月、今いる環境に我慢が出来なくなり、私から離婚を切り出したこと。
周りの反対から、結局やり直すことになったこと。
前日までは一緒に寝たり、ギュウギュウしていた息子が、何を聞かされたのかいつの間にか一方的に私を悪者として、ある日突然一言も口をきいてくれなくなったこと。
離婚を切り出してから半年、家の中に居場所がなく、気の休まることがないこと。
家人はおそらく、離婚を切り出した私のことを許せないだろうこと。
居心地の悪い私の隣で、テレビを見ながら笑う家人が声が、以前よりも余計に癇に障ること。
相手だけが悪いのではなく、私にも悪い点はたくさんあること。
家人は、元々いい人で感謝はしているけれど、もう一緒いることが苦痛なことなど、今まで言葉にしたことが無かったようなことまで、淡い薄桃色の花の下、涙を流しながら歩き話す自分がいた。
Nちゃんは、何も言わず聴いてくれた。もうそれだけでも、この日来た甲斐はあった。ずっと一人で抱えて、完全に心が麻痺していた私は、自分がこんなにツライと思っていることにさえ気づかず、平気な振りをしていたのだ。
途中公園で休憩もしながらではあったけれど、いつしか14時近く、足が棒のようになってきた頃、Nちゃんが提案してくれたのが、落語を観に寄席へ行くことだった。
前々からNちゃんが寄席の楽しみを聞かせてくれていたので、一度行ってみたかった私は、一も二もなく連れて行ってもらうことにした。
中で食べるためのお弁当を買って、新宿の末廣亭へ着いたのは15時を2,30分過ぎたころだったろうか。
この日の末廣亭は、RR舎Mこさんの真打お披露目の興行で、大御所クラスが並ぶ、かなり豪華な顔ぶれだった。なんと贅沢な寄席デビュー!
昼の部の終盤から21時を過ぎるころまで、たっぷり5時間以上、笑って笑って笑い倒した。ここ1年近く、ろくに笑うことのなかった私は最初の1,2演目は正直なところなかなか笑いどころがつかめなかった。新作落語は馴染みが薄く、かすかに「フフフ……」と笑うのが精いっぱいだったのに、一席、二席とすすむうちに、声を出して笑い、大口を開けて笑い、身をよじらして笑っている自分がいることに、私が一番驚いていた。
その横ではNちゃんがコロコロと笑っている。
末廣亭の中にいる人々もみんな心の底から笑っている。
なんて幸せな空間。
Nちゃんに打ち明けることで初めて気がついた、ガチガチに凝り固まった私の心が、この数時間の寄席での体験によって、マッサージを受けたようにじわじわとほぐれていくのが分かった。笑うことで間違いなく、私の心は動いていた。
一生で『笑って』いる平均時間が22時間30分ならば、確実にこの日、1年分は笑い転げた気がする。
そして自分の家で笑えない環境のなんと不自然で苦痛に満ちたことであるか。
「人生は笑って過ごしてなんぼだな。つくづくそう思う。変な我慢、変な忍耐、変な自己犠牲はもういらない。22時間30分なんてケチくさいこと言わないで、これからの人生まるごと笑って過ごしてやろう!」
そう決意したのはこの時である。
私に寄席を教えてくたNちゃん。よい出会いになりました。これからの私の人生に、寄席はなくてはならない存在になりそうです。本当にありがとう。
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