あいさつする相手は1人でも、決して1人ではない
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:高林忠正(ライティング・ゼミ日曜コース)
「今日の昼って、何してた?」
帰宅しようとしていたそのときです。課長の沢野さんから言われました。
百貨店に入社して5年目、VIPのお客さまへの営業マンとして、毎日複数のお客さまのもとに訪問していました。
何してたって言われたって、日報見ればわかるでしょ。
いささかむっとしてしまいました。昨日も、「おまえはすぐに顔に出る」って注意されたばかりだったからです。
「はい、午前中は六本木の増田さまにカーテンのカタログと見積りをお届けしましたけど……」
「そのあとは?」
執拗にに聞いてきました。
これって、尋問かよ。
そのときはまだ課長が何を言いたいのかわかりませんでした。
「お客さまのイベントを手伝ってくれって言われてたんで、帝国ホテルに行きました……」
課長は何も言わずに下を向いています。
急に不安になりました。
自分って、なにかしでかしてしまったのだろうか?
午前中の自分のたどったコースをフラッシュバックのように振り返ってみました。
六本木から東京メトロの日比谷線の最後尾の車両に乗って……
日比谷駅で降りて、改札を抜けて、地上に出たら、目の前は日比谷通り……
横断歩道を渡って、帝国ホテルの正面玄関から入って……
ロビーを横切って、通路を6〜70メートルほどまっすぐに行って、突き当りのエスカレーターに乗って……
それで3階の孔雀の間に上がって……
帝国ホテルでなんかしでかしちまったかなぁ……
「帝国ホテルでどなたかに会わなかったか?」
ホテルってイベント会場、それとも別の場所?
課長おかしいこと言うなぁ……
あ、待てよ、そういえば……
正面玄関から入って、突き当りのエスカレーターホールに向かって歩いているときに……
向かって左側のラウンジのソファに……
そうそう、以前先輩と一緒にお伺いした麻布の相川さま、
相川さまががソファに座っているのが見えて……
すぐそこだったんだよなぁ、2メートルくらいのとこじゃなかったかなぁ
目が合って……
早くエスカレーターに乗らなくちゃということで、軽くおじぎしたんだよなぁ。歩きながら……
「相川さまにお会いしました」
「……」
課長は無言でした。
口を開くまでの数秒間が30分ほどにも感じられました。
「さっき、相川さまから電話があったんだ」
やはり相川さまだったんだ。
オレなにか粗相しちまったのかなぁ……?
沢野課長は、淡々と話し始めました。
「相川さまは、『親父の代から30年もおたくで買い物してるけど、今の若いのはあいさつもろくにできないんだねぇ』って」
「……」
自分の何が良くなかったかわかりませんでした。
確かにそのときは急いでいました。
歩きながら左側の相川さまと目が合って、顔を向けただけのあいさつをしたのです。
「いつもお世話になっています」という意味を込めていました。
「ごあいさつしたんですけど……」
課長は黙っていました。私もなんと言っていいか分からずに、立ち尽くしていました。
「おれがそのときの相川さまだと思って、そのときのあいさつをしてみな」
決して広いとはいえない事務所でした。
相川さまと目があったときのシーンを思い出しながらおじぎをしたのです。
帝国ホテルのソファは、事務所のイスに比べて高くはありませんでした。
2度、3度とおじぎをしてみました。
「私と相川さまの間は2メートルくらいだったんですよね。こんな感じです」
何か問題あったかなぁ……
「わかった。かわりにここにすわってみな。そのときのおじぎを再現してみるから」
私はイスにすわりました。
2メートルという間隔は、すわっている側からすれば、手が届くように感じました。
「おじきって、こんな感じだったんだよ」
沢野課長の身長は175センチ、私とほぼ同じでした。
課長がやって見せたおじぎで気づいたことがありました。
すわっている自分から課長は、想像以上に高く見えるということでした。
しかも、目の前の課長が何か自分に対して迫ってくるような感覚がしたのです。
圧迫感でした。
それは違和感につながりました。
さらに、歩きながら顔だけむけたおじぎは、何かのついでのような感じがしました。
何かが足りない感じです。
心がこもっていないと言われても仕方がないかもしれません。
自分がお客だったら、愉快な感じはしないと思ったからです。
「体というか、おへそを向けてあいさつしなかったよな」
課長は歩きながら、顔を向けただけのおじぎをもう一度やってみせました。
「『常務の吉田さんや、取締役の加藤さん加藤さんはみなさん、ていねいにおじぎをしてくれたのに……』っておっしゃってたんだぜ」
「なにか自分が軽く見られているような感じがしたんじゃないかな」
「立ち止まるって、何秒ってものじゃないよね」
確かにそうでした。
「たとえばだけど、こんなおじぎはどうだろう」
課長はすわっている私に対して、体を向けてヒザを折っておじぎをして見せたのです。
親しみ以上になにか、親切にされているような感覚でした。
「すわっている相手に対しては、まずこちらが立ち止まって、おへそを向けてみてごらん。そしてヒザを折って、そのあと頭を下げると目線が低くなるよね」
確かに体を向けてもらったことで、真摯に相対してもらっている感じがしました。
そのうえ、視線が低いと途端に親しみが湧いてきました。
課長は言いました。
「あいさつって、単なることばを交わすわけではなくて、その人とつながるんだよね」
「その人だけじゃなくて、その背後にいる方たちともつながる可能性があるんだよなぁ」
「その場にいる人も、無意識のうちに見ているんだ。言い換えれば、周りにいる人たちにもあいさつしていることになるんだ」
「1人1人は、会社のみんなを代表しているんだ。それも現在だけじゃない、過去の先輩の信用も背負ってね」と。
あいさつの奥深さを体から感じたできごとでした。
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