あの日、逃げた私がもらったもの
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:濱田 綾(ライティング・ゼミ平日コース)
「やっちゃった……」
しまったと思った。しばらくどうしたらいいか分からなかった。
郵便受けに置いたはずのヤクルトの蓋には、亀裂が入っている。
ぼたぼたぼたと液体がこぼれる。
ドクドクドクと心臓の音が高まる。
どうしよう、どうしようと考えても、足が動かない。
結局、半分になってしまったヤクルトを郵便受けに戻して、その場を後にした。
小学校3年生のことだ。祖母はヤクルトの配達をしていた。
ひょんなことから、その手伝いをすることになった。
毎日、学校から帰ってきてから、自転車に乗ってヤクルトを届ける。
晴れの日も雨の日も、もちろん雪深い日は歩いてでも届けにいく。
一日100円、一か月3000円の小学生にしたら高額なおこづかいだ。
漫画や本が大好きだった私は、すぐにその話に飛びついた。
おこづかいがそんなにもらえるなんて、しめた! と思ったのだ。
月末には集金にいく。簡単に考えていたが、計算機も使えない子供に集金は難しかった。
暗算もすぐにできない。習ったひっ算を必死に使いながら、おつりを渡す。
一つのお宅を回るのに随分と時間がかかった。
そのうち、毎日の配達もだんだんと面倒になってきた。
放課後に友達とそのまま遊びに行きたい。
たまに配達に付き合ってくれる友達もいたが「なんで、こんなめんどくさい事してるん?」と不思議そうにされたことを覚えている。
晴れの日は自転車があるからまだいいけれど、雪の日なんか最悪だ。
雪国の田舎は、積もった雪の中を、ずぼずぼずぼと長靴ですすんでいく。
こんな雪の日に誰もヤクルトなんて待っていないと、何度も口にした。
そんなある日のことだ。
一軒のお宅は、玄関にある郵便受けの上にヤクルトを置く約束にしていた。
手を伸ばせば届くが、郵便受けは少し高いところにあった。
いつもは両手で、そっとヤクルトを並べていた。
急いでいたのか、その日は片手でヤクルトをぽんと並べた。
「よし、終わった」
帰ろうとした瞬間、1本のヤクルトが傾こうとしているのが、ゆっくり見えた。
スローモーションのように傾きが増していく。
「あー!」
遅かった。がたーんと音がして、コンクリートの地面にぶつかってしまった。
どうしよう。
ここでピンポンと押して、正直に謝ろうか。
こっそり、おこづかいでヤクルトを買って並べようか。
いや、怒られる。怒られるのは嫌だなぁ。
どうしよう。
結局私はそのまま、逃げた。
祖母にも出来事を話せないまま、隠していた。
そのあとも、何か言われるのではないか、怒られるのではないかとびくびくしていた。
でも意外なほど何も言われなかった。
その代わりに、何か後ろめたいような黒い思いが大きくなっていった。
何日かたったある日。
いつものように郵便受けにヤクルトを置こうとしたその時、一枚の紙を見つけた。
「綾ちゃん、いつもヤクルトを届けてくれてありがとう。郵便受けの下でもいいからね。ヤクルト届くの楽しみに待っています」
ばれていた! 一瞬そう思ったが、次の瞬間に、なぜかほっとした気持ちがあふれてきた。
怒られなかったという安堵だろうか。
それもあったが、もう抱えなくてもいいんだという気持ちも大きかった。
落としたまま、そのままで逃げたのに、ありがとうなんて。
ほっとしたやら、恥ずかしいやら、複雑な気持ちになった。
後日、祖母と一緒に新しいヤクルトを持って謝りに行った。
迎えてくれたのは笑顔だった。
結局私は、小学校を卒業するまでヤクルト配りを続けた。
今、私も大人と言われるいい年齢になった。
でもよく思うことがある。
年齢を重ねただけで、私が子供だった時の大人のようには、まだなれていない。
子供が自分にとって都合の悪い事をしたとき、ついイライラしてしまう。
「なんでそんなことしたの!」と責めているような、そんな気持ちになることも多い。
「悪い事だよね、なおさないとね」と、どうしてもジャッジしてしまう。
本当は、その出来事がどういうことなのかは、本人が感じることなのに。
出来事を経験ととらえるか、失敗ととらえるか。
思い出したくないことになるのか、心にとどまっていくのか。
その分かれ目は、周囲の強いこころと見守りだと思う。
時に、自分の考えを押し付けない強さが。そして太陽のようなあたたかい見守りが必要だ。
ヤクルト事件をあたたかさをもって見守るには、どれほどの気持ちを飲み込んだだろう。
子供のしたことと考えるには、どれほどの心の大きさがあったのだろう。
今の私は、まだ「ありがとう」と言えるあたたかさは持てていない。
「失敗は成功のもと」というけれど、自分の力だけで「もと」になるんじゃない。
色んな人の押し付けない強さや見守りがあってこそ。
太陽のあたたかさで芽が出るように、「もと」は育っていく。
そうやって今まで歩んでこれたんだろう。
今は、自分で一人で考えられることも増え、できることも増えている。
だからつい薄れてしまうけれど、一人でここまできたわけじゃない。
おかげさまだ。本当におかげさま。
「あのヤクルト配りの綾ちゃんが、立派になってね」
そう笑い話にしてもらえるあたたかさは、なんてありがたいんだろう。
今度はバトンを受け取って私の番だ。
子供たちの芽が出るように、見守っていけるだろうか。
まわりの大切な人たちを見守っていけるだろうか。
まだまだ長い道のりだけど、受け取ったバトンをつないでいきたいと思う。
あの日にもらったものを忘れないように。
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