杖を持つのは誰のため
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事;やまもとよしこ(ライティング・ゼミ日曜コース)
「ぐはっ」
聞いたことのない音声を発して目の前で男の人が倒れた。
(あーあーやっぱり)
心の中でため息をついて慌てて自転車を脇に止めた。
北向きの一方通行ながら交通量は結構多い道だ。
私はその道路に面したスーパーに向かうために自転車に乗っていた。
段差のないラインだけの歩道を危なげに歩く男性をさっきから認識していた。
左半身麻痺の様なのに、すごいスピードで足を引きずって歩いているので大丈夫なのだろうかと心配になってじっと見てしまっていた。でも決して変な念は送っていない。
なのにバランスを崩し転倒。
ひっくり返って起き上がれない亀のような状態になっている。
それも歩道ではなく転んだ勢いで道の真ん中近くに体は投げ出された。
どうしよう。
左麻痺だから右に回って……
何だったっけ?
昔々ヘルパーの資格取得講座で習った気もするが、記憶の底に沈んで上がってこない。
ええい、と正面から抱きしめるように持ち上げようとするけれど
子なき爺かと思うくらい重いのだ。背丈は私と変わらないのに。立ち上がれない。
でも、車が来る前になんとかしなきゃ。
どうしよう、どうしよう。
どうすれば。
脇の下に両腕を回し、抱き上げて立たせようとしても、力の入らない大人の男性の重さときたら……
ヘルパーの実技実習では男性と組み、片方の麻痺がある設定でベッドの上から体を起して車いすに乗せる、とか、お風呂に入れるなんて練習をした。
あの時もそれなりに重さはあったけれど、あくまでも設定で、全員健常者であったから
自然と、無意識のうちに協力的だったのだとこんな状況で分かった。
ここは道路だ。硬いし、手すりはおろか、支えに出来そうなものは何もない。
せめて杖があれば、上半身だけでも起こして座ってもらう支えにできるのに。
簡単に起こせる古武術の方法があったような気もするけれど……
役に立たないうろ覚えの自分の記憶力を呪った。
スマートフォンは持っていたから調べればよかったのだろうけれど、
それは後になって思えたことで、この時は調べるのに時間を使う発想なんて全く浮かばなかった。
とにかく何が何でも車が来る前に、なんとかしなければと焦る。
焦るけれど、実際は途中まで立たせては力尽きるのを繰り返すばかりだった。
視線を感じて前を見ると、向かい側の家の窓からおばあさんがこちらを眺めていた。
ラッキー。
「おばあさん、すみません、おうちにどなたかいらっしゃいませんか」
無言。
その間も手を休めずに、もう一度声を大きくして聞く。
無言。
耳が遠いらしく聞こえていない模様。
いつまでこれを繰り返すのだろう。
ラッキーは束の間で、無間地獄に落ちた気分だった。
ハアー~と大きなため息をつきたくなった。でもこのおじさんもこんな格好をさらけ出しているのは本意ではないのだからと、ぐっとこらえた。
でもやっぱり無理だったので横を向いて深呼吸のふりをした。
すると、なんとむこうから自転車に乗った大学生らしき男の子がやって来るではないか。
「すみませーん」と声を掛けようとしたがイヤホン男子だったので
進行方向に飛び出して進路妨害。
「私の力じゃ無理なので助けて下さい。お願いします」
彼は右側、私は左側の脇と肘を支えて二人で「せーの」と声を合わせ、3度目で立ってもらえた。
イヤホン男子は颯爽と行ってしまった。
でも、お節介なおばさんは立ち去らず質問を浴びせかける。
「お宅に連絡しましょうか」「誰もいません。ひとりです」
「どちらまで行かれますか」「○○(近くの地名)まで」
「駅ですか」「違います。少し向こうまで」
「何かお手伝いできますか」「いえ、大丈夫です」
「支えとか要りませんか」「大丈夫です」
そうは見えないけれど、さすがにもうこれ以上は迷惑だろうと判断したので
「お気をつけて」と声を掛けて見送って、勝手に後ろからついて行った。
すると、私が行こうとしていたスーパーに入店。男性はカートを支えに店内を回り始めた。
その姿に安心して、見つからないように買い物せずに帰った。
ジュースを待っていた子どもには「何しに行ってきたん」と怒られながらググってみると、後ろから脇に手を入れるとすんなりと立たせることができると分かった。
数日後、出先でまたしてもすごいスピードで小走りする半身麻痺の見知らぬおじ様に遭遇。このまま行き過ぎてと願っていたのに、目の前ですってんころりんと見事にお転びになった。今度は車道からは独立した歩道。
ゆっくりと歩道脇に自分の荷物を置いて背後に回る。
後ろから脇の下に手を入れてひょいと持ち上げると、嘘みたいな軽さで人形のように上手く立ってくださった。
あっという間に一件落着。
でも、二人ともまた転ぶ可能性はあるのだ。
なのに、どうして杖を持っていないのだろう。
おまけに歩くスピードも速かった。
もしかしたら退院したばかりなのかもしれない。
杖は入院中に十分準備は可能なはずだけれど、心の準備がまだ整っていなかったのだろうか。勝手で失礼な想像でしかないけれど、病とその重い後遺症で心が折れてしまったままなのかもしれない。
心を支える杖は通りすがりの者には何ともしようがない。
けれど、実物の杖は確実に身体を支えてくれる。
転倒に出くわし、動転した私みたいな者の味方にもなる。
そのためにもどうかどうか杖を持っておでかけください。
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