お客さまに伺うときは、手前の100メートル地点がカギ
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:高林忠正(ライティング・ゼミ 日曜コース)
私が百貨店に入社したとき、上司や先輩たちからきつく言われたルールがあった。
それは、「社内に入る際はコートを脱げ」だった。
冬の出勤時、うっかりコートを着たまま社員通用口から入ろうものなら、警察官OBの警備の人たちからきつく注意された。
「コートを脱げ!」
「(おまえは、)ほんとうにこの会社の社員なのか?」と。
「社内に入るときはコートを脱ぐ」
これは百貨店である以上、正規のルートを踏まないで品物を持ち込んだり、持ち出したりする不正防止の目的から定められたものだった。
そして代々引き継がれていた決まりだった。
もともと世間知らずだった私だったが、「コートを脱ぐ」という原則は、いつしか習慣になっていた。
お客さまのもとに伺う場合、個人、法人のお客さまを問わず、玄関先や先さまのオフィスの入っているビルの前では必ずコートを脱ぐようにしていた。
しかし、いくら心がけて習慣化したものであったとしても、自分のなかでは継続によって、マンネリ化してしまうことがある。
そんな私にとって、「日々新た」な意識の大切さを教えてくれた先輩がいた。
単純なことだったが、今まで全く気づかないことだった。
社内公募で法人営業(法人外商)に異動したときだった。
それまではご来店されるお客さまへの接客が主で、クレームや必要に迫られた時以外、外出することはなかった。
法人への営業では、クライアントである法人のお客さまへの訪問が主となる。
異動した当初私は、定年を3ヶ月後に控えた松山(仮名)さんというベテラン社員とペアを組むことになった。
松山さんは、高校を卒業後入社した叩き上げの社員だった。入社して3年間は店頭の洋菓子コーナーで販売を担当したのち、法人営業に異動。以来37年間、法人営業一筋に歩んで来た方だった。私は知らなかったのだが、百貨店初の新規ビジネスの数々を立ち上げた、知る人ぞ知る実績の持ち主だった。
それは松山さんと最初に外出した日だった。
外出先は、東京都新宿区のある大手飲料メーカーさんだった。
営業の内容は、先さまから依頼された夏の消費者キャンペーン用の販促品、いわゆる品物に付けるノベルティの提案だった。
冬の午後だった。今にも、みぞれか雪が降ってきそうな天候だった。
JR新宿駅西口の改札を出て、地下街から地上に上がった。
曇天の下、私たちはコートの襟を立てながら、新宿中央公園の方角に向かって歩いていた。
京王プラザホテルに沿って歩きながら、目指すビルが左前方に見えてきたそのときだった。
松山さんが急に立ち止まった。
「コート脱ぐぞ」
と言いながら、さっと脱いだコートを左脇に抱えた。
カバンを両ヒザにはさんだまま、左手で結び目に手をかけたネクタイの先端を、残る右手で引っ張った。
乱れがないか? と背広に触れていた。
そしてカバンに入っている提案書を確認したのだった。
私もつられるように、コートを脱いで小脇に抱え、ネクタイを正し、背広をチェックすることになった。
外出直前に確認したものの、カバンを開けて再度忘れ物がないか? と調べた。
一瞬間を置いたのち、松山さんは私を促すかのようにまっすぐに進んだ。
50メートルほど歩いて左に曲がり、ビルの入り口に入った。
私たちは2つあるエレベータホールのうち、左側の比較的近い方に向かった。
5階までは吹き抜けのビルだった。エレベータを5階で降りてお客さまのオフィスに向かった。
すでに営業は始まっている感じがした。
その帰り道だった。
新宿駅に向かって歩きながら私は松山さんに聞いた。
「いつもお客さまのもとに伺うとき(冬の日の場合)、あんなに手前でコートを脱ぐんですか?」松山さんは黙って頷いた。
「でも……、なんで手前でコートを脱ぐんですか、エレベーターホールに入ってからでは遅すぎるんですか?」
しばし、沈黙の時間が流れた。
松山さんは、言葉を選ぶように話し始めた。
「なんていうかな……、会社を出たときから営業って始まってるんだよな」
驚いた。そして、自分を恥じた。
私自身、外出で電車に乗ったときは、リラックスというか、座席が空いていたら極力座って、寝るようにしていたからだった。
松山さんは続けた。
「(私の中では、)お客さまの手前100メートル地点で、マインドを変えるんだよな」
そこで、冬だったらコートを脱ぎ、夏だったら汗に注意して着ているジャケットを羽織り直すとのことだった。
「一気にギアを上げるっていうイメージかな」
お客さまのビルの手前100メートル地点は、松山さんにとって、営業のステートに入る瞬間だった。
それ以来、松山さんとの同行営業のときもそれ以外のときも、なにか阿吽(あうん)の呼吸のようにお客さまの手前100メートル地点でコートを脱ぐようになった。
いつの間にか、それは自分にとってのルーテーィーンになっていた。
冬の間は、その地点でコートを脱ぎ、春から秋にかけては、背広を着直してネクタイを結び直すようにした。
天候が芳しくないときは、雨宿りをして行った。
同時にそこに至るまでの準備の大切さも学んだ。
すると不思議な感情が生まれてきた。
かつては、個人や法人のお客さまへの訪問の際、プレッシャーで押しつぶされそうにもなっていた私が、何か腰を押されるように感じ始めた。
お客さまを前にしたときに、おっしゃる一語一句が、動画のようにイメージされるようになった。
気がつくと、4年間で3度の社内MVPを獲得させていただいた。
松山さんとの出会いが、いままでは何気なく過ごしてきた行動に、意味を見出すことになった。
お客さまの手前100メートル地点での準備とマインドの開放が、お客さま本位の営業に変換するきっかけとなった。
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