音楽が好き、と言うときっと嘘になる。
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:haLuna(ライティング・ゼミ平日コース)
「音楽が、好きなんですよね?」
そう訊かれて、うまく答えられずに気まずくなったのは、今でも苦い思い出だ。
それは昔、音楽活動をしながら派遣で働いていた厨房でのこと。先輩の派遣社員に「歌やってるんでしょ。ちょっと何か歌ってみてよ」と言われて困った末のやりとりだった。
「音楽が、好きなんですよね? 好きだったら普通、歌いません?」
厨房で先輩に強要されての「歌う」が「好きだったら」の「普通」なのか、今となっては大いに疑問だけれど、とにかく先輩とうまくやっていきたい一心であらゆる判断力が鈍ってしまっていた私は、こともあろうに、
「音楽が好きとか、そういうんじゃないんです……好き以前に、自分と切り離せないというだけで」
と、馬鹿正直に答えたのだった。
「はあ? 全然意味わかんない」
……その後の先輩との関係はお察しである。
まあ、私も私で頓珍漢な返答だったのは間違いない。
音楽を本気でやっている、音楽の道を志している、というと、たいていの人は「たくさんの音楽を知っているのだろうな」と思うだろうし、またそうあるべきだと言うだろうと思う。
少なくとも、「音楽が好き」であるということは本来、疑問を差し挟む余地もないはずだった。
なので、その手の質問や追及に対しては、いつも答えに困ってしまう。
私は新しいものを体に入れるのがとても苦手だった。音楽に限らず、映画でも本でも。テレビは自発的に観ることがないし、未だに地デジリモコンの操作もわからないほどだ。
ニュースは、ほしい情報だけをネットで取得するに留める。できれば、文字だけのものがいちばん易しい。
それもこれも、心がすぐに持っていかれてしまう、という性質のせいだった。
雑多な情報が全部同じウエイトを持って頭に侵入してくる。いちいち心を揺さぶられる。テレビのニュースは演出が重すぎるし、バラエティも軽い気持ちで観ることができずに全部真に受けてしまう。映画も小説も、それがよい作品であればあるほど、心がその世界に持っていかれて、数日間は日常生活が立ち行かなくなる。
実生活でも人の感情のうねりにものすごく敏感で、人混みに入るとすれ違う人ひとりひとりの「感情の動き」や「背景」みたいなものが自動的に入ってきて疲れてしまう。
そういう人のことをHSP=Highly Sensitive Personと呼ぶのだと知ったのは、大人になってからのことだ。
HSPの説明を読むと「繊細すぎる人」と呼ばれたりしていることが多い。
「気にしすぎる人」と言われそうだがそれは少し違う。
最近秀逸だなと感じた表現は「気がつきすぎる人」。見えてしまう、感じとってしまう人、というのが一番実情に近いのではないかと思う。
感動は、痛い。物理的に、胸がギュッとなるし、涙腺がズキズキと痛くなる。
音楽も例外ではなかった。たくさん学ぶためにたくさん聴かなければいけない、ずっとそのことに悩まされてきた。なぜなら、ひとつの曲に深く引っ張られすぎて、ものすごく精神的なエネルギーを費やしてしまうから。
ただそれでも、音楽だけは、私の感覚器を刺激する他のあらゆる情報群とは一線を画していた。
音楽は空気みたいなものだった。ないと息苦しい。そして、(こういう、多くの人に伝わりづらいであろう感覚を幼い頃から持っていた私にとって)外の世界と私をつなぐ唯一のもの。私がなにかを伝えるときにふるえるもの。
他の媒体と違って、音楽はただ私に覆い被さり無理矢理入ってくるものではなく、外の世界に向かって私の方からも発信されるものだった。
だからこそ、その唯一の領域に対してさえ「たくさん聴かなきゃ」を求められるのはとても苦しかった。
新しいものを耳に入れるたび、頭の中がてんやわんやになってしまう。愛しすぎてつらい、となり、嫉妬し、焦り、心の荒波を持て余して自分が動けなくなった。
音楽をものすごく大切に思っている反面、強く拒否してしまうことさえある。苦しさや痛みが勝っていることのほうが多いくらいだ。そのためか、音楽が好き、という言い回しはどうしても、自分にはなじまないものだった。そのことにずっと、引け目のようなものを感じていた。好きならたくさん聴くはず。好きなら好きと即答するはず……。
今にして思えば、どんな感覚も反応も、否定することはなかったのだ。
私はこれが苦しい、しんどい。そのことを押し殺して人と足並みをそろえることも、「これも知らないなんて音楽家失格」と他人に評されることも、とてもとてもばかげている。
私は量や数をたくさん取り入れることはできない代わりに、半年でも一年でも同じ一曲だけをリピートで聴いていられるし、100回聴いても初めてのように感動することができる。そして100回目になっても、誰かが聴きながして取りこぼしてしまうようなことを、きちんとすくい上げることができる。
違和感にいち早く気づくことができる。自分の変化にも敏感に気づくことができる。
そしてなにかを歌う立場になったとき、言葉や音から汲み取ったその歌の世界を自然に描くことができる。おそらく、他の人よりもすこしだけ容易く。
そう、自分の弱点だと思っていたことは、実は強みでもあった。そのことがやっとわかってきたから。
感覚を育てるということは、何かギプスのようなもので矯正して無理矢理覚えさせることではない。その人、その人にしか感じ取れない世界があるのは、誰もが違う目と耳と皮膚感覚とを持っているからに他ならず、それをきれいに並べて均して一律に教わることにしか価値がないのだとしたら、そこに個性は存在しないことになる。
私は音楽家と言うより、音楽そのものになりたかったのだと思う。
ハードがなくなれば物理的な痛みは消える。ただ美しくてすばらしいものになれる。
歌の中で、自分の体や自分の精神というものを「ただの器」にしてしまいたかった。
今は、音楽が人に成って地上に降りたらどんなカタチだろう、そういうものになろう。そんなことを思っている。
それは、そういう孤独ともいえる痛みの中に、自分以外の誰かを見つけたからだと思う。
HSPという言葉を知り、そういう風に感じるのが自分だけではないと知った今、「ひととちがう私」が「ひととして」生きていくということに、きっと自分だけに留まらない意味があるはずだと思えるようになったから。
私たちはみんな一人で、でも独りじゃない。
どんな感性も感覚も否定しなくて済むような世界を、まずは自分の中に築きたい。
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