骨折はみんなを笑顔にする
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記事:いづやん(ライティング・ゼミ日曜コース)
その瞬間、僕は「やっちまった、どうしよう」とまず思った。
大雪の影響も収まりつつあった1月の末の土曜日。
行けると思って自転車に乗ったままカチカチに凍った道に侵入した直後、前輪が真横に滑って左肘を強打。衝撃は綺麗に肩に伝わり、なにやら嫌な音がした。
「肩が外れたか、それとも骨が折れてるか……これはまずい」
痛みで呼吸もままならない体でなんとか立ち上がって、自転車も右腕だけで起こした。左腕はおそらくしばらく使いものにならないだろう。脱臼ならはめればすぐに復帰できるかな。外れグセがつくだろうか。だったら面倒だな。
そう考える理由が僕にはあった。なぜなら今日は付き合っている彼女の誕生日を祝う店を予約していたからだ。ケガしている場合じゃない。色々な考えが渋谷ハチ公口の交差点のようにまったく整理されないまま頭を駆け巡る。
だが、駆け込んだ整形外科で告げられたのは、「左肩甲骨骨折」という無情なものだった。
主治医の先生も理学療法士の先生もこぞって「また珍しいところを骨折したねえ」と言った。僕もこんなところが骨折しているとは思わなかった。どうするんだこれ。
全治3ヶ月から半年。世間で言うところの大ケガの部類だ。
「腕や足と違って肩甲骨は筋肉に挟まれて動く骨なんですよ。だからギプスで固定できないから、こうやって三角巾で腕を吊って、さらに体から離れないようにバンドで留めます。できるだけ体から腕が離れないように気をつけてください」
三角巾の上からバンドでぐるぐる巻にされた僕は鏡を見てため息をついた。見た目も大げさだ。ケガしてます!というアピール力は強いけど。
明日からの生活、仕事はどうしよう。何より彼女に迷惑をかけることになるだろう。
骨折の直後に連絡した彼女はすっ飛んできて、しばらく僕の部屋に寝泊まりして面倒を見てくれることになった。ありがたくも申し訳なさで心はいっぱいだった。
本当は予約したお店で渡す予定だった誕生日プレゼントも、とりあえずなにか食べないとと買ってきたコンビニメシを僕の部屋で囲んでいる時に渡した。予約してた店に行けるのが三ヶ月後になるのか、半年後になるのかわからなかったからだ。
「ありがとう」と言ってくれた彼女の、嬉しいような困ったようななんとも言えない顔を僕は忘れないだろう。
それにしても、左腕が完全に使えないので、顔もまともに洗えなければ、用を足した後にジーパンのファスナーも満足に上げられない。腕は両方あってこそ、だったんだな!
もちろんシャワーも満足に浴びられないので、彼女に体を洗ってもらった。結構情けない。左腕が上がらないので一人で服を脱ぎ着することもできないのだ。
何から何まで自分のことを自分でできないもどかしさ。さながら赤ん坊のようだ。
この実感はあながち間違ってはいなかったと、このあと実感することになる。吊った腕を下ろして良くなる二ヶ月もの間、僕は赤ん坊そのものであったり、赤ん坊を連れているようなものだったと。
週明け、腕を固定した姿でなんとか出社すると、みんなもなんとも言えない表情で対応してくれた。こんなおっさんに向ける表情がいつもと違ってどこか優しい。治療のために定時で上がることも了承してくれた。
「どうしたんですかそれ!」
仕事の打ち合わせに腕を吊った姿で臨むと、相手は必ずそう驚いてくれた。状況を説明すると、みんな一様に気遣う言葉をかけてくれて、優しくしてくれる。
「ええっ、どうしちゃったのその腕!」
一番驚いたのは、収めたばかりの大きな案件で通っていたお客さんのところの守衛さんに優しく声をかけられたことだった。
僕はこの守衛さんが苦手だった。いつもしかめっ面で、挨拶をしても返してくれることもなく、来客表の書き方が悪いと何度か怒られもした。
その守衛さんが笑顔で驚き、気遣ってくれるのだ。
他のお客さんもこの守衛さんも、しばらくは行くたびに回復状態や僕のことを気遣ってくれた。
さながら、生まれたての赤ん坊を抱いて連れてきているかのような気遣いぶりだった。
「ずいぶん回復したねえ」
「やっと腕を吊らなくてよくなりました。結構早いほうだと思います! ご心配おかけしました!」
吊った腕を下ろせるようになった時には、満面の笑みで話しかけられた。
僕にはみんなからのリアクションが、連れている赤ん坊の成長を喜ぶように感じられて面白かったし、やけに誇らしかった。僕は世間的にはおっさんと呼ばれる年のくせに結婚もしていなければ子供もいないが、この時感じたものは世間の親御さんが子供の成長をみんなに披露したくなるということと同じなのかもしれないな、と少し分かった気になった。
年賀状に「こんなに元気になりました」と子供の成長記録よろしく、僕も左腕を高く掲げた写真を印刷し一筆添えたいほどに。
「自分のことができるようになるまで部屋にいるからね」と言ってくれた彼女が自分の部屋に戻っていったのは、骨もそこそこ繋がり腕が降ろせるようになった二ヶ月後のことだった。
生まれたての赤ん坊のようだった僕も、彼女のおかげでめでたく成人を迎えた子供のようだ。立派かどうかはまた別問題だが。僕というある意味赤ん坊より手間のかかるめんどくさいものを相手にして、彼女は文句の一つも言わずに世話を焼いてくれた。感謝しかない。
自分が赤ん坊になったり、赤ん坊を連れているかのような体験をした二ヶ月だったが、本当の赤ん坊がいたら実際はどうなのだろう。
そうだ、彼女と結婚して「親」になろう。そうすれば、じきにわかるじゃないか。そして、僕が受けた世話と恩をそのまま彼女と赤ん坊に返そう。
彼女が自分の部屋に帰ってから3ヶ月後、僕はプロポーズした。
「え、冗談で言ってるんじゃなくて?」と真顔で返されてしまったが、その直後に笑顔でOKしてもらえた。お祝いの日に骨折するような男だ、そう言われるのも無理はない。ちょっとずつ、挽回していけばいいさ。
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