麗しの××物件
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:芝桜文鳥 (ライティング・ゼミ平日コース)
「……10年も住んでいただいたのに、きれいに使っていただいて……」
最後の部屋の鍵をお返しする立ち合いの時、借りていた部屋の管理会社の査定のおじさんからこの言葉を聞いた時、思わず心の中でガッツポーズが出た。
“やった! 勝った!”
次の部屋に荷物を送り出してから、宿直明けに休日に……と明け渡す前に掃除に補修にと励んだ甲斐があったというものだ。
鍵を返す瞬間、最後に訊くか訊かざるかちょっと悩んだ。
「……この部屋って……」
10年前の春先のことだった。
祝福されるようなささやかな結婚だったはずなんだけど……5年の月日の果ては、日々罵られるような関係だった。口が達者な夫には言われっぱなしだった。嘲られっぱなしだった。言葉が出てこないのだ。罵り言葉も嘲るような言葉も私の中には出てこなかった。
あげくの果てのたたきつけるような一言だった。
「好きなひとができた。別れて欲しい」
はっとした。そういう選択肢があったのか。
きっとそのひとなら、このひとが幸せを感じられるのだろう。
私では、このひとは幸せを感じられない。
この一言を聞いた時、何だかほっとした。
別れてしまえば、仕事で帰りが遅いとか料理の仕方から味付けから洗濯の手順から干し方から片づけ方から掃除の仕方……何から何まで罵られることもない。
「わかりました」とだけ、淡々と返した。あっさり受け入れた。
その瞬間、威勢のよかった夫の表情が急にふぅっとたじろぐように消えていくのが不思議に思えた。
なんだ、もっと喜べばいいのに。願いがかなったんだから。
そうはいっても春先……2~3月といえば、進学・転勤と世の中は異動の季節。
不動産屋さんや運送業などの引っ越し関連業界は最繁忙期の真っただ中だ。
ネットで調べて5件ほど不動産屋さんを回ったが、時期が悪いのか決まらなかった。
条件は、ユニットバスでもいいから、和室で2口ガスコンロが置けること。
ユニットバスで和室だと50件以上あがって来るのだが、最後の“2口ガスコンロ”でがっくり2~3件に落ちてしまうのだ。今どきのおひとり様向けはIHや電気コンロが主流らしい。
その最後の2~3件を見てみるのだが、ぴんと来ない。合わない。
5件目の不動産屋さんで、紹介された最後の物件を拝見した後に、そっとおおい隠すような仕草の電話の後出てきたこの部屋。
「事情があって……まだお見せすることはできないのですが、4月でよろしければお渡しできますよ。但し……条件がひとつだけあります」
“引渡しの前、必ず現地確認をすること”
それがその部屋を借りる条件だった。
2月の終わりかけに仮押さえした部屋の本契約は、管理会社側の希望で現地確認した後に、引渡しは部屋の改装が完了する4月中旬に行うことになった。
和室6畳+台所6畳のユニットバスの1DKの小さな部屋。
ペットは2匹までOKだったけど、「ペットは買わないので家賃はまけて欲しい」という私のわがままがあっさり通って、他言はしない条件で下げてもらえた。
そして現地確認の朝が来た。
壁紙や襖がとっぱらわれて、剥出しになった壁面。
前の住人のものと思われる、部屋の片隅に山積みになった生活用品の数々の上にどっかりと載せられたじっとりと油を含んだ埃にまみれたガス台。
こびりついたような焦げなどは見られない。あんまり自分で料理するひとではなかったようだ。お湯沸かしてインスタントラーメン作るくらいかな……
前のひとってどんなひとだったんですか? 何の気なしに尋ねただけだった。
「前にお住まいだった方ですか? 一人暮らしの男性の方ですよ。7~8年くらいでしょうかねぇ~犬と一緒に……」
穏やかに返される言葉を聞きながら、部屋のあるところで目が留まった。
……一箇所だけ、違和感ありありだった。
なんだ? ここ。
押入れの上部のベニヤ板の天井だけが、ひしゃげるように下に向かって引きちぎられていた。しなだれるそれは、まるで滝のようだった。
「うっわ……元気な犬ですねぇ……」
「いやいやいや……そんなはずないでしょう!」
予想したよりも強い語気で返されたので、確信した。
……いやー踏んだわ。たぶん
どうして不動産屋さんが部屋の引渡しの前に現地確認してからにこだわったか、何となく察した。
訊くべきか、訊かざるべきか。
言葉に詰まった一瞬、ふと窓の外を見た。春の薄く霞がかった街を見下ろした。
「……あ」
その視界の端から端を白と青の線がふおーんと突っ切って、山の稜線に吸込まれていった。
「ここ、新幹線みえるんですね」
「お好きなんですか? いいですよね、新幹線。その高架の遠く向こうが瀬戸内の海ですよ」
薄く立ち上る霞が幾層も白く重なって見えないが、きっと瀬戸内の島々が浮かんでいるのだろう。まだ夫と付き合いはじめだった時のことを思い出した。濃くけぶるような梅の香りの中で仰ぎ見たぽこぽことした愛嬌のある島たちが見える気がした。
……決めた。ここにしよう。
「決めます。ここにします」
そう不動産会社の方に告げると、うっかりびっくり箱を開けた時のような声が返ってきた。
「えええええっ! いいんですか?」
勧めておいて、それはないのでは(笑)
無事内装工事が終わって、部屋の引渡しを済ませた夜。
部屋の掃除を済ませて、何もない部屋で眠った。
あんなにゆっくり休んだの、久しぶりだったなぁ。
それから3カ月ほど経ったころだろうか。深夜2時過ぎに携帯電話に着信があった。
元夫だった。
「……もういいだろう?」
相変わらずの不機嫌な声。なんか喉の奥の方でごちゃごちゃ言っている。
「え、なんで? 言っている意味が解らない。お幸せに」
軽くふっつり切って終わらせた。
それからの10年間、この部屋には十分楽しませてもらった。
春は山桜と霞が、夏の夜は手のひらサイズの港まつりの花火が新幹線の車窓の灯に重なってそれはそれは綺麗だった。秋の夕暮れに山の稜線が沈んでいくのも美しかったし、冬の朝に外の家々の屋根に雪が積もって朝日にほの白く照らし出された明るさも忘れられない。
遊びに来た友人たちが、部屋に名前を付けてくれた。『鉄子の部屋』と。
10年経って、旅立つ時が来た。
訊くべきか、訊かざるべきか。
「……この部屋って……いいお部屋でしたよ。いいひとに決まるといいですね」
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