幸せなデブ
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記事:斎藤多紀(ライティング・ゼミ日曜コース)
「あなた、座らなくちゃダメよ!」
満員電車の中で優先席に座っていたおばあさんが、立っていた私に席を譲ろうとした。なぜだか私はちっともわからなかった。戸惑い、遠慮しようとする私を、そのおばあさんは、「いいから、どうぞ!」
と言って、半ば強引に座らせてくれたのだ。私は、怪我人ではない。私は年寄りではない。では、なぜ、優先席に座らせてもらえたのか。優先席の窓には、こんな人に席を譲りましょうというイラストが表示してある。それをみて、あっと思った。そうか、これしかない。これに間違われたのに違いない。おばあさんは、私を「妊婦」だと思ったのだろう。
この日は気温が30度近くあったので、私は体にぴったりフィットした薄いTシャツを着ていた。太って大きくせりだした腹がことさら目立つ服装をしていたせいで、ただのデブなのに、妊婦と間違われたのだ。
「私は、妊娠していません」
席を譲ってくれたおばあさんに、そう言うわけにもいかなかった。そんなことを言ったら、せっかくの好意を無にすることになるし、気まずい空気も漂う。私は覚悟を決めた。電車にのっている数分の間だけ、妊婦になりきろうと。胎児ではなく、ただの脂肪の塊がつまった腹に手をあて、大事そうになでてみたりした。
「妊娠何か月ですか?」
などとおばあさんに聞かれなくてよかった。子供を産んだ経験のない私には、自分の腹の出具合が、妊娠何か月相当なのかなど、わかりもしないからだ。三つ目の駅で、おばあさんが電車を降りてくれた時にはほっとした。そして、安心して優先席から立ちあがった。
私は二十年ほど東京で暮らしていて、三年前にUターンして実家のある山形市に帰ってきた。この三年で、十キロも体重が増えてしまったのである。食べるものも、運動量も、東京に住んでいた頃とさほど変わってはいない。むしろ、酒を飲む量は減ったし、糖尿病の父に合わせて食事をつくっているので、野菜中心のヘルシーな食生活になった。なのに、なぜこんなにもみにくく太ってしまったのだろうか。山形に帰ってきてから、中学や高校の同級生何人かと会ったが、皆一様に太っていて驚いた。私だけではなかったという安心感と、デブは山形県民特有のものなのだろうかという疑問が同時にわいた。
ある日テレビをつけたら、横綱・白鵬がバラエティ番組に出ていた。番組の中で、白鵬の入門当時の体重を聞いて驚く。なんと、今の私とちょうど同じ体重だったのだ。相撲の新弟子と同じ体重にまで肥えた自分が自分で嫌になった。私が男だったら、相撲部屋に入門することも可能ということか。その後、白鵬は、入門時の三倍近く体重を増やしたのであるが、それにしてもひどい。
山形牛は、ストレスのない状態で伸び伸び育てると、よく肥えて油がのったいい牛肉になるのだという。純粋で豊富な湧水、そして新鮮な空気、また牛飼いたちの細やかな人情、さらに、山形の気候風土、これらが「山形牛」を極上ブランドに育てあげたのだ。山形のまったり、のんびりした風土が、私を牛同様に、こんなにも豊かに脂肪でいっぱいの体に育てたのだろうか。
東京で住んでいたマンションでは、カギをかけずにいることなど全くなかった。そんな恐いことできるはずはない。道を歩く時も、バックをひったくりにとられないように、しっかり握って歩いていた。けれど、山形の実家は、カギどころか、門も玄関の戸もあけっぱなしで、いつでも人が侵入できる状態だ。家族は、それで全く平気なのだ。泥棒なんているわけはない。そんな楽観的な気持ちで、この土地に何十年も暮らしているのである。そして、実際に、一度も泥棒に入られたことはない。
デブになってしばらくは、「やせなくてはいけない!」と必死だった。やせるサプリメントを飲んでみたり、スポーツジムに通ってみたり、糖質オフダイエットをしてみたり、やせそうなことなら手当り次第トライしてみた。しかし、一向にやせない。思い余った私は、「断食」をやってみることにした。三日間専用の栄養ドリンクだけを飲み、食べ物は一切口にしてはいけないというものだった。それは想像以上につらかった。まず、頭がまったく働かないのだ。空腹を紛らわそうと本でも読もうと思ったのだが、活字の内容がまったく頭に入ってこない。頭に栄養がまわらないので、何も考えられないのである。既に料金を払ってしまったので、私は断食道場で3日間廃人のようにひたすらボーっと過ごすしかなかった。
断食を終えて思った。こんな思いまでして、私はやせなくてはいけないのだろうか。健康診断の結果に問題があるわけではなく、洋服だってネットでいくらでも大きいサイズのものが買える。大勢の人に見られる仕事をしているわけでもなく、周りに「デブ」とバカにする人がいるのでもない。そう考えれば、私は幸せなデブだ。「もういい、好きで太ったままでいてやる!」ついにはそんな結論に至った。
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