落ちこぼれることすらできなかったけれど
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記事:なつむ(ライティング・ゼミ日曜コース)
私は多分、大学院で落ちこぼれだった。
大学院に入ってから「いつのまにか、なんとなく学問に躓いているかもしれない自分」に気がついていた。
でも、気がついたときにはもう、どこから躓いていたのかもわからないくらいになっていて、そういう状況に、見て見ぬふりをし、落ちこぼれているわけではない、と、勘違いをしようとしていた。
それでも、周囲とは、なんとなく違うなというものを感じていた。
友人たちはみんなすごくいい人で、優しくて、私を馬鹿にするような人はいなかった。
何の別け隔てもなく同じように冗談を言い、笑い、いろんなことを話した。
でも、一歩引いてみると、私にはなんだか、周囲の友人がみんな自分よりうんと優秀に思えた。
自分とは地頭自体が違う、と感じさせるような何かがあって、正体のわからない、圧倒的で決定的な知的能力の差を、周囲との間で感じていた。
その答えは、ある日突然現れた。
昼食の後、いつもの通り、そんな「自分とは違う優秀な友人たち」の後にくっついて、興味もないのに大学生協の本屋に行った時、私は一冊の本と目が合い、そして、目が離せなくなった。
そこには 「読書力」 と書かれていた。
岩波新書の、齋藤孝先生の本である。
当時の私は、単位を取るのにあるいは自分の研究を進めるのに必要な文献でも、「ちょっと難しいものを読んでいると、すぐに眠たくなってしまって」いた。
他方で周囲の友人は、論文であれ学術書であれ、はたまた小説やライトノベルスであれ、とにかく「活字中毒」並みに本を読むのが好きでそして得意な人が、気づけばものすごく多かった。
吸い寄せられるように手にとって、中身を見た。
それこそが、自分と周囲の「地頭の良さ」を隔てている要素だということに思い至るまで、そんなに時間はかからなかった。
いろんなものが、一気に自分の中にやってきて、渦巻き始めた。
読書が重要だということはずっと言われてきた。でも当たり前に言い古されたことのようになっていて、その真価に気づかず、何もしてこなかった自分の浅はかさや愚かさに、青ざめた。
周囲の優秀な友人たちと、自分との、知的能力における、圧倒的で決定的な差がどこから来るのか。ずっと欲しかった答えが鮮やかに見つかったことに、興奮もまた隠せない思いだった。
読書が重要だというのが、実際的にどういうことなのか、どうして、もっと前に、わかるように、知ることができなかったのか、世界のからくりに騙されたような、地面がひっくり返ったような、恨みがましい気持ちもあった。
他方で、どんなに遅れを取っていると言っても、これから、この力を身につけることで自分も這い上がれるのではないか、これで光が見えたという希望もまたそこには同じくしてあった。
思考や人間味の深さ、機知やユーモア、私の持たない知的なあらゆるすべてを、彼らは本から得ていたのかも知れない、そう思った時、あぁ、今の自分は周囲よりも能力が劣っているということを、ようやく自覚するに至った。
私はそれから、にわかに活字を読み始めた。
読書に関する本や、その本の中で勧められていた本を読み、「自分の意思で本屋に行く」ということを初めて覚えた。
それまで本屋のことを、どうしてみんなが行きたがるのかわからない、最悪に退屈な場所だと思っていたくらいだから、大した変わりようだった。
しかし、後から振り返るとそれも、「勘違い第二章」に過ぎなかった。
活字を読み始めた私が当時傾倒したのが「自己啓発書」だった。
ちょうど勝間和代さんが注目を集めていた時期でもあった。日本の著者が書いたもの、海外の方が書いたものの翻訳本、いくつかを読んで、そして、夢中になった。
今考えると、恐ろしいくらい、何もわかっていなくて読んでいた気がする。
活字を追うことに今度は忙しくなって、現実に生きている世界と、例えば小説の中の世界や、自己啓発本で描かれる少し現実離れした思考の世界とを、毎日、私はパラレルで生きているような感じだった。
後から考えると、とても地に足がついた思考ができていたとは思えず、妄想ばかりが大きかった。
結局、大学院での学問は空転に空転を繰り返していた。
それでも、自覚がないというのは実に恐ろしい、そして実に強いものでもあって、ある意味「普通の、優秀そうな、理系の大学院生」として私は就職活動をし、いくつかの内定をもらって、そしてそのうちの一社に入った。
入社して、2年くらい経って、自分が採用の側で学生と接するようになった頃、ふと、昔の自分に気づいた。少しは、ものの分別がわかるようになったのだろう、つい数年前自分がいかに「何もわかっていない学生」だったかと言うのが、急に目の前に浮かび上がってきたのだ。
大学院で、私は、間違いなく、落ちこぼれていた。
そして、自らの無自覚ゆえに、リアルタイムで落ちこぼれを経験することすら、できなかった。
でも、より物事がわかるようになった状態で、過去の自分の「落ちこぼれ度合い」を客観的に見てしまうと、自分の内的世界で落ちこぼれを追体験するには十分すぎるほど、「自分のダメさ具合」というのがよくわかった。
穴に隠れてどこかへ行ってしまいたいくらい、自分にひどくがっかりした。
それでも、ずっと、勘違い第一章、勘違い第二章のままのほうが良かったかと言うと、やっぱりそれはもっと怖い。
意気揚々と空虚な自信たっぷりだったあの頃よりも、落ちこぼれた自分をよくよく味わった今のほうが、誰に対しても、自分に対しても優しくなった気がするし、辛抱強くもなった気がする。
落ちこぼれることすら、ちゃんとできなかったけれど、落ちこぼれる前より、今のほうが少し、自分が好きだ。
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