シチリア便座紀行
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記事:加藤しのぶ(ライティング・ゼミ木曜コース)
(ない……ほんとに、ない)
8年ぶりの海外旅行の行く先は、憧れのシチリア。
世界遺産にもなっている中世のモザイク見さに、羽田から経由地パリでの一泊を挟み、合計15時間のフライトの末、私はシチリアのパレルモ空港に降り立った。アドレナリンは全開で、思わず叫び出しそうになる。
興奮冷めやらぬ状態で、空港の、とある施設に入った私。だが、あるものを見た瞬間、さっきまでとは別の意味で叫び出しそうになった。
そこは、空港内のトイレ。見たものとは、白い便器。ただし、本来あるべきものが、ない。
イタリアのトイレには、便座がない。
旅行前に現地事情を調べた時、最もショックだったのは「イタリアのトイレは便座がない」との一文だった。今までヨーロッパは何度も訪れたが、どこの国でもトイレはあまり清潔感がなく快適じゃない。除菌シートや水に流せるティッシュは必須携帯。それでも、便座のないトイレは見たことがなかった。
一応、心構えはしてきたつもりだったが、何もいきなり空港で!
とはいえ、生理的な問題として、私に時間は残されていないのだ。この便座のないトイレを、どうにかして使わねば。
ガイドブックによれば、現地の人は腰を浮かせて用を足すという。
気を落ち着けて便器を観察する。ちょっと幅が広いようだから的は大きい。それにあまり高さがない。これなら、身長160㎝に満たない私でもなんとかなりそうだ。
腰を落として、スクワットの姿勢をとる。運動不足の身にはつらい。膝が笑う。これは腹筋も使わなければ耐えられない。しかし、力を入れすぎてはいけない。慎重に、慎重に……。
数分後、私は晴れやかな気持ちでトイレを出た。
恐れ入ったか、シチリアよ!
ひとつ攻略すると、度胸がついた。
さすがにホテルのトイレには便座があったが、それ以外では行く先々で便座のないトイレが私を待っていた。が、もう平気だった。
パレルモの王宮で金色に輝くモザイクに酔いしれ、旨い食事とジェラートに舌鼓を打ち、便座のないトイレでスクワットしながらシチリアを堪能する。
ああ、シチリアって最高!
しかし、すっかりスクワット方式に慣れたころ、次の難問が現れた。場所は最も壮麗なモザイクがあるモンレアーレの大聖堂。トイレに便座がないことは想定内。
問題は、便器の高さだった。
いままでは日本の標準からいってもやや低めのものばかりで、腰を浮かせたままでもすることはできてた。
だがこのトイレは無理だ。高さがあって、届かない。
スクワット方式では、その、つまり、事故る!
次の瞬間、追い詰められた私の思考は停止した。
そして、やけくそなのか、それとも何かの悟りを開いたのか、まったく無の心境で、おもむろに便座除菌シートを取り出した。
一枚で便器の縁と外側を、もう一枚で縁の内側を丁寧に拭く。
そして。
私は、生まれて初めて便座のない便器に座り、するべきことをした。
それからの私は、もう、躊躇なく便器に座り続けた。
そもそも便座を取り外してあるのは、掃除が楽だからだそうだ。そのせいか、個室自体は少々アレな感じでも、便器だけはキレイなところが多かった。
だとしたら、便座とは何のためにあるのだろう?
トイレの目的は排泄だ。便座がなくても、便器の機能に変わりはない。和式のトイレなら、そもそも便座の概念はない。
便座ってホントに必要なの?
便座の存在意義がわからなくなってきた旅の終盤、カステルモーラという小さな村を訪れた。絶景の村として有名で、地中海やシチリアの山が360度見渡せる。
景色を心ゆくまで堪能した後、村の中心から少し外れた場所にある飲食店に入った。中年の女将と、女将の娘で切り盛りしている家族経営の店だ。女将は親切で、地元のお酒を惜しげもなく試飲させてくれる。実に居心地がいい。店の名は「da PiPPO」。
その店で、トイレを借りた。水事情の悪そうな山の上のトイレだから、特に期待はしていなかったが、しかし。
(ここは、日本か……?)
トイレに入ると、まず、人感センサーで明かりがついた。個室はとても清潔で、臭いもない。トイレットペーパーもあるし、便器もキレイ。
そして何より、便座があった。それも、真っ白で、清潔な。
便座に、座る。
思わずため息が出て、体の力が抜けていく。全体重を便座に預けているからだ、と、しばらくして気が付いた。トイレでこんなに落ち着いたのは久々だ。
思えば、便座のないトイレでは、ひたすらするべきことに集中していた。そうしないと、色々危険なことになるからだ。
でもこのトイレは、穏やかで静謐な空間だ。危ないことなど何もない。それもこれも、すべてはキレイな便座のおかげ。
便座は、なくても使える。つければ掃除が面倒だ。
それでも便座をつけてピカピカに磨き上げているのは、女将の心意気に他ならない。シチリアにおいて、これは最大級の「おもてなし」だ。
穏やかな時間を与えてくれた「da PiPPO」を、女将の優しさを、私は絶対に忘れない。
その後、シチリアで便座をみることは、ついに無かった。
あの女将のトイレは、やはりシチリアの奇跡だったのだ。
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