メディアグランプリ

シャワーになった伝説の動物


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【12月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

 
記事:今泉まゆ美(ライティング・ゼミ木曜コース)
 
ある日の朝、事件は起きた。
 
体が動かない。
これから会社に行かなくてはならないのに、全身が起き上がる事を拒んでいるのだ。
 
もう起きなければ遅刻してしまう。午前中の会議に遅れるわけにはいかない。
焦る心、それに反して沈黙する体。
会社を休むことに決めると、なぜか休みの連絡をできるくらいには動けるようになった。
 
何かがおかしい。
随分前からたまに朝の変調は起きていたが、ここまでの状態になったのは初めてだった。
でもきっと、連日3、4時間睡眠で仕事をしていれば疲れて起き上がるのが辛いことも
あるだろう、とその時は見て見ぬふりをした。
 
それから数日後。
通勤電車を待つホームで、ふとある考えが頭をよぎった。
「ここでホームに飛び込めば、もう二度と会社に行かず上司の顔も見ずに済むんだ!」
それがこの上なく素晴らしいアイデアのように感じた。
 
ふらふらとホームの淵に近づいていった。
頭の中は意外と冷静で、駅員さんがこちらを見ていないかを確認する余裕すらあった。
電車が近づいてくる音が聞こえた。あと少しだ……
 
次の瞬間、ハッと我に還った。
誰かに白線の内側へ引っ張られたような感覚があったが、誰もいなかった。
自分がしようとしていた事に気付き、ゾッとした。
 
やはり、自分に何かが起きている。このままだと何をするかわからない。
自分への恐怖を感じ、そのまま病院へ向かうことにした。
 
 
診断は「鬱」だった。
そう言われて最初に感じたのは、病気だとわかったことへの安堵だった。
医師はこう言った。
「明日から会社には行っちゃだめだよ。あなたは病気を治すために休む必要があるんだ」
当面の間ではあるものの、会社に行かなくて済むという願いは叶ったのだった。
 
 
「本当に病気なのか?元気そうに見えるけどなぁ。甘えてるだけじゃないか?」
医師から出社を禁止されたと伝えたにも関わらず、会社に診断書を持参しなければ
認めないと言った上司は、私の顔を見るなりそう言った。
隣に座っていたプロジェクトリーダーは、一瞬顔をしかめたもののそれには触れず、
「しっかり休んできちんと治してきなさい。待っているから」と言ってくれた。
とりあえず義務は果たした。私は完全に感情を消し、一礼した後に無言で立ち去った。
 
どんな思いでここまで来たのか、上司には全く想像もつかないだろう。
私がまた線路に飛び込もうとしてしまうのではないかという恐怖を抱えていたこと。
何度も立ち止まっては「今日さえ行けば休めるんだから」と自分に言い聞かせたこと。
それを知ったところで「来れたんだから問題ないじゃないか」と言うに違いない。
そして私が同じ恐怖を抱えながら帰る事など当然知る由もないのだ。
 
 
「だから出社してはいけないと言ったのに」と医師は言った。
部下がそこまでの状態になっても気付かない上司なんて、ろくな上司じゃないんだから、と。
 
上司に嫌われているとは思っていた。
どれだけ成果を上げても、お客様から感謝され頼りにされていても、評価はいつも一番下。
その評価に納得がいかず上司に理由を尋ねると、ある時は有休を取得したからだと言われ、
またある時は女性だからだと言われた。
 
そこから脱出しようと、上司に知られず異動ができるはずの社内公募に申し込んだが、
なぜか上司の耳に入って勝手に断られ、「ここから出られると思うなよ」と釘を刺された。
 
辞める以外に道は無かった。でも就職氷河期の最中、30社以上の面接を受けてようやく
入社できた会社を、そうやすやすと辞めるわけにはいかなかった。
そんな出口の見えないトンネルのように暗い環境。その闇が徐々に心を覆い尽くしていた
事に全く気付かず走り続けていたのだった。
 
 
療養生活の最初はひたすら眠るしかなかったが、少し落ち着くと本を読みたくなった。
当時よく読んでいたのは浅田次郎だった。
個性的な登場人物、時にコミカルで、時に心に深く沁みるストーリー。
その世界に没頭することで、他の事を忘れる時間を過ごした。
 
 
長編小説をいくつか読み終えたところで、『姫椿』という短編小説集を手に取った。
その中に、効果てきめんな薬があったのだ。
 
 
唯一の家族であった、愛猫と死別した鈴子。
ある日の帰宅途中に見慣れないペットショップを発見し、そこでシエという
伝説上の動物と出逢い、家に連れて帰ることになる。
鈴子と生活するうち、シエにある変化が……
 
 
本を読んで、嗚咽したのは初めてだった。
実は、不幸に見えた彼女の周りは、さりげない優しさと愛に満ち溢れていたのである。
 
私もそうだった。
「ちゃんとご飯食べないとあかんで」と母親のように言ってくれる先輩もいた。
「今日の仕事は終わり!」と言って飲みに誘ってくれる同僚もいた。
よくよく思い出すと、遠巻きに心配してくれている人たちの姿が思い浮かんだのだ。
プロジェクトリーダーの言葉も、本当に心配してくれた上でのものだった。
当時は上司の評価を得ることに必死で、その存在が全く見えていなかった事に気付いた。
 
 
早く治して復帰したい。心配してくれた人たちに会って感謝を伝えたい。
「治さなければならない」ではなく、「治したい」と初めて思った。
そこからの回復はめざましく、予定よりもかなり早い段階で復職可能になった。
その後、医師の協力により上司の元を離れたことで、鬱の寛解と正当な評価を手に入れた。
 
 
今でも、泣くためにこの小説を読むことがある。
マイナスの感情が澱のように溜まって心にへばりつき、どうにも身動きが取れない時に
これを読んで泣くことで、その感情をさっぱりと洗い流すことができるからだ。
人生で最もつらい時期に出逢ったこの小説は、この先の人生における数々の場面において
心のシャワーとして私の助けになってくれることだろう。
 
上司にも今では感謝している。彼がいなければ、こんなに素敵な小説と出逢うことは
なかったのかもしれないのだから。
 
***

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2018-11-16 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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