その時が来る日まで
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【12月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:藤崎 香奈子(ライティング・ゼミ 木曜コース)
「おかあさん、今日のテスト絶対見にきてよね」
「あれ? 今日スイミング進級テストだっけ?」
「そうだよ、クロール25m!」
「えっ、もう25m泳げるの? この間、クロールクラスに進級したばっかりじゃない」
「うん、泳げるよ。だから絶対見にきてよね」
娘のあやがスイミングを習い始めたのは、小学1年生の夏からだ。最初は顔を水につける事もできなかった。お風呂で随分練習したのだけど、結局つけられないまま最初のレッスンへ向かった。
あや達のコース。子供たちが次々と顔を水に付けて壁を蹴っていく。あやは一番後ろで不安そうな顔。でも自分の番が来たら、覚悟を決めたような表情で顔をつけ、コーチに手を引かれて浮いていた。あれにはびっくりした。親と一緒だと甘えてしまうけれど、離れたら根性出して色んな事ができるのだ。
それから自信がついて、あやはスイミングが大好きになった。スイミングスクールでは顔つけ、蹴伸び、バタ足とどんどんレベルが上がっていった。できるようになると面白くなる。休日どこ行く? と聞くとプールと答える事が増えた。プールに行ったらクロールの自主練。こんなに泳げるようになったんだよ、と泳いで見せてくれる。まだまだ下手くそなクロールにドヤ顔する姿がかわいくて、たくさん褒めた。
通い始めた頃はレッスンの様子を初めから終わりまで見学していたけれど、最近はお迎えに行くだけになってしまっていた。どのくらい泳げるようになっているのか、実はよく知らない。まだまだ泳げるには程遠いと思っていたあやが、クロール25m泳げるですって。そんなに言うなら見学に行ってみますか。
2、3年生のクラスともなると見学に来ている親は少ない。その日もガラガラだったので、一番良く見える場所に陣取る。あやの出番は7番目くらいだ。
プールサイドからもこちらはよく見えるようで、あやは時々私に視線を寄越し、口の形で「絶対見ててよね!」と伝えてくる。私がほかの子供を見ていると、怒ったしぐさで「私を見て!」とアピールがすごい。
テストが始まった。最初の子は15mくらいで立ってしまった。次の子も健闘したけれど、20mくらいで脱落。ああ、残念。やっぱり25m泳ぎ切るのは大変だよね。クロールの息継ぎは難しいよね。知らない子達だけど、応援してしまう。
さあ、いよいよあやの番だ。
「よーい、スタート!」コーチがストップウォッチを押す。
おっ、なかなか速い。いいバタ足だ。ああ、息継ぎはまだ下手くそ。息継ぎの度にスピードが落ちる。半分過ぎた。そろそろ限界かな、と思ったがまだ頑張る。行けるか? 本当に泳ぎ切れるの? 頑張れ! 頑張れ!
あと5m。フォームはもうめちゃくちゃ。遠くからでもわかるくらいスピードが落ちている。頑張れ、あと2m! あと1m!
すごい。泳ぎ切った。コーチが驚いた顔をしているのが見えた。息を切らしながらコーチに駆け寄るあや。ストップウォッチを見ながら何か言われている。その時、満面の笑みでガッツポーズをする姿が見えた。やった、合格だ。
スイミングを始めて、まだ1年半くらい。最初は顔もつけられなかったのに、もう25m泳げるようになったなんて。あんなに根性があったなんて知らなかった。少し曇ったガラス越しに見るあやは、何だかずいぶん遠くに行ってしまったように思えた。私はプールの熱気でじっとりと汗をかいていた。
子供は信じられないスピードで成長している。ちょっと目を離していたら、すぐに見失ってしまうくらいだ。あやの頑張りに胸が熱くなる反面、焦りの気持ちがやってくる。まだ小さいあやでいてほしい。そんなにはやく大きくならないで。
「おかあさん、わたし合格だったよ! 次は背泳ぎクラスだよ!」
あやが元気よく更衣室から飛び出してきた。
「ねえ、今日はコレいいよね……」
スイミングの進級テストの日は決まって自動販売機のアイスを食べる。そして、あやは普段は絶対買ってもらえない一番高いプレミアムチョコアイスを指さした。
「うん、いいよ。好きなの買いなさい」
口の周りをチョコレートだらけにしてアイスを食べるあや。ああ、いつも通り、まだまだ小さい子供だ。少しほっとしてその姿を眺める。
帰り道、夕方のひんやりした風を感じながら、手をつないで歩く。小さくてやわらかくて、なぜかいつも少しベトベトしている手。つい、つないだ手に力が入った。
「おかあさん、ちょっと痛いよ」
「ああ、ごめんごめん。ねえ、あやちゃん。いつまでこうして、おかあさんと手をつないでくれるのかなあ」
「おかあさん、いつまでもだよ」
いつまでも。そうだったらいいなあ。でも決してそうならない事をおかあさんは知っているよ。いつかあなたは私の手を振りほどいて行ってしまう。その時、さみしい顔を見せないように、笑顔で送り出せるように。ひとりになっても、この手の感触を忘れないように。その時が来る日まで、大切に大切に握りしめていよう。
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