ずっと忘れていた心地よい気分
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:田中義郎(ライティング・ゼミ日曜コース)
中嶋は天を仰いだ。
なぜ業績が急に悪化したのだろうか。どうしてもその原因が掴めなかった。
3か月前までは順風満帆だった。今後も順調に推移するはずだった。
悪化の原因を把握しているはずの顧問税理士、川下からも何の連絡もない。このことも不可解だった。
居ても立っても居られなくなり、中嶋は税理士を訪ねた。
「川下さん、ご存知の通り業績が急に悪化しました。その原因に心当たりがないので聞きに参りました」
「どうして社長のあなたが分からないのですか? わずか3か月で大幅な悪化です。心当たりはあるでしょう。もし原因把握ができていないなら、ご自身で解明されたら如何ですか」
川下は冷たく突っぱねた。
「えっ?」
彼は瞬間言葉が出なかったが開き直った。
「まさかの時に役立ってもらうために高い顧問料を払っているんです。役立たない税理士とはお付き合いしたくありません。今月で契約を打ち切ります」
彼は激高し、捨て台詞を残してその場を去った。
中嶋は「駄菓子」製造販売会社の2代目社長である。
事業承継したときは社員数30名程度の零細企業だったが、継承してから10年余りで150名の企業に育て上げた。
得意先は量販店。過当競争の激しい業界であったが、廉価と品質(純国産)を売りに拡大を続けてきた。
中嶋は帰社してすぐ、製造と販売の責任者を呼び原因を訊ねたが、2人とも分からないと答えるだけだった。彼はそれぞれの現場でその兆候がなかったかと詰問を続けたが、同じ答えを繰り返すだけだった。
気になっていたことがなかった訳ではない。1つは、4~5か月前からパート社員の退社が目立ってきたことだ。さらに、求人難で簡単に人は集まらず、社員の負担は徐々に大きくなっていたことは事実だ。
もう1つは、総務責任者、黒石の突然の退社だった。6か月前の出来事である。
中嶋は黒石のことを思い出していた。彼は何かあったとき逐一報告にきた。対策も万全だった。先代からの社員で彼が頼りにしていた唯一の社員だった。
引きとめたが「お世話になりました」という一言を残し去っていった。彼は黒石を失ったことを悔やんだ。黒石なら何とかしてくれるはずだ。と、でも後の祭りだった。
翌日、中嶋は再び川下税理士を訪ねた。
深々と頭を下げ、前日の非礼を詫びた。
「業績悪化の原因が掴めないのです。原因を知りたいのです」
昨日と同じ質問を繰り返した。
川下は考え込んだ。
しばらく沈黙が続いたが、腹を決めて語り始めた。
「総務担当の黒石さんが退社されましたね。理由を聞かれましたか?」
中嶋は首を横に振った。
「黒石さんは御社の屋台骨だった。さまざまな陰の仕事を一手に引き受けてきた。その彼を退社に追い込んだのはあなたです。社長であるあなたです。あなたは彼の悩みを知ろうとしなかった。ねぎらいの一言もなかった。
社員数150名といっても、その内120名あまりがパート社員です。10年選手でどれだけ会社に貢献しても正社員になれない。しかも、5年以上昇給もボーナスもない。さらに〇〇県の最低賃金すれすれのレベルの時給しか払っていない。休日出勤をしても割増はつかない。パート社員の不満の矛先は黒石さんに向かっていた。彼は何度もあなたにその解決を迫ったはずです。しかし、あなたは取り合わなかった。パート社員の退社が始まったのは黒石さんが辞められてからです。それもあなたは気付かなかった。あなたは社員が可愛くないのですか?」
川下はさらに続けた。
「会社幹部の総務、販売、製造の3人の責任者にも昇給がない。一方、役員は法外な報酬を受け取っている。仕事をほとんどしていない身内の2人にも同様の額が支払らわれいる。黒石さんはこのことも許せなかった。『先代は公私のけじめが厳しい人だったが、現社長が執着しているのはお金だけです』と、彼は私に語ってくれました。黒石さんが退社したのも、業績悪化の種をまいたのも、社長であるあなたなのです。あなたは経営者として、いやその前に人間として失格です」
中嶋は言葉が出なかった。返す言葉がなかった。黙ってその場を去った。
足は自宅に向かっていた。一人になりたかった。
毎日7時に出社し、夜遅くまで身を粉にして働いてきた。最高に良い会社にしたかった。そして、可愛い我が子にバトンタッチし、親としての責任を真っ当したかった。特に大きな野望もなく、ごく普通の真面目な社長であり親だという認識だった。
どこで歯車が狂ったのだろう。
考え続けた。
いつの間にか夕焼けの空になっていた。
「あなたは社員が可愛くないのですか?」
この税理士の言葉が引っかかっていた。正直一度も社員を可愛いと思ったことはなかった。社員のことよりもコストのことばかりを考えていた。厳しい競争に勝つためにはローコストは生き残りの必須条件だった。だからコストに目が行き、社員のことなど考えたことはなかった。
総務担当の黒石からパート社員の時給引き上げの話を何度も聞かされたことを思い出した。いつも聞き流していた。頑として応じなかった
社員がどんな生活をしているかなど考えたこともなかった。
彼からの時給アップの話は、パート社員の生活実態を知ったうえでの要求だったかも知れない。
「社員の生活も守れない社長」これが社員から自らに押された「烙印」だった。
彼は眠りから覚めたように我に返った。
このままでは社員の退社は加速し、会社はつぶれてしまう。自らの人生も消え失せてしまう。
食事も取らず考え続けた。
いつの間にか窓に光が差す時間になっていたが、妙案は浮かんでこなかった。
現状延長線上にその答えはなかった。
唯一つできること。
それは、今まで犯した数々の重罪を償うこと。
そして、その証を示すこと。
その証とは「自らの今までの人生にピリオドを打つこと」だった。
これ以外に自分にできることはないと悟った。
今までのすべてをリセットする。
社員の給料を今月から1.5倍に上げる。自らの報酬を大幅に下げる。
社員の生活を守るのは社長の責務だと認識する。そのために必要な原資は、自らの蓄財をもって充てる。よく考えてみれば自分の蓄財のほとんどは、社員が仕事を通して生み出してくれたものなのだ。
社員に心から謝罪する。社員とのコミュニケーションを心がけ本音で語り続ける。自らは今まで通り身を粉にして働き続ける。すぐ心を開いてくれなくても、いずれ時間が解決してくれることを信じて、焦らず、諦めず、粘り強く取り組む。
誠意をもって臨めば、いずれ新しい光が差してくるに違いない。
いつしか穏やかな心になっていた。
我に返った。
昨日のことが嘘のように思えた。
何か良いことがあるような気分になった。ずっと忘れていた心地よい気分が込み上げてきた。
彼は、朝食もそこそこに、居ても立っても居られず会社に向かった。
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