上司がくれた、生きる力
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記事:矢内悠介(ライティング・ゼミ日曜コース)
「それだけはやるなってあれほど言っただろう!」
上司の罵声が飛ぶ。喜んでくれるかと思ったが、むしろ怒らせてしまったようだ。私は、営業としてこのときほど自分の行いを後悔したことはない。
転職をした私に営業を教えてくれたクロさんという人がいる。
クロさんは、未熟でもやる気に満ちている私に応えるように、私を叱り続けた。クロさんからすると、叱っても必ず這い上がってくれる、私にとっては、無茶な挑戦をしても必ず最後には助けてくれるという、お互いの信頼があった。
当時、私が勤めていた会社では2種類の名刺を持ち歩いていた。全般的なものと、業界を絞った専門的なものである。名刺交換をする際に渡す名刺を間違えそうになり、同行していたクロさんがクライアントに見えないように背中をたたいたことがあった。
「名刺は印象変わるから気をつけな。背中たたくだけでわかってくれるんだから、まだいいよな」
あるときでは、クロさんと待ち合わせをしていたものの、事前の打ち合わせが長引いてしまうことがあった。クロさんに10分遅れることを伝え急いで向かったものの、着いたのが15分遅れだったときにこう言われた。
「10分遅れそうだと思ったら、20分遅れそうって言えばいいんだよ。想定より遅れるより、想定より早いほうが相手も気を悪くしないだろ」
クロさんは、些細なミスを容赦なく指摘してくれる。名刺の印象、時間の意識、それが営業にとってどれだけ大切なことかをわかっているからだ。教科書のように教えてくれることはなかったが、本質に気づかせてくれるような言葉でいつも伝えてくれていた。
資料づくりをするように言われたときも、私は苦悩で頭を抱えた。入社して間もない私に与えられた課題は、会社のプレゼン資料をつくること。上司であるクロさんを納得させるまで、何度でも資料を提出しなくてはいけなかった。理不尽と思ったのは、指示に沿って直すように言われた箇所も、次に持っていったときにはその箇所を直すように言われることだ。はっきり言って地獄だった。退職後に聞いた話では、クロさんはどの会社にいようが新人には必ず資料づくりをさせるらしい。気づいた頃には会社のことを理解しているというわけだ。最高の研修だと思った。
クロさんの厳しい指導のおかげもあり、順調に契約を結べるようになった頃、クライアントとの打ち合わせで見積りが大きな金額になる案件があった。いいものには即断で投資をするクライアントだったので、提案にやりがいを感じていた。そこで、このクライアントであれば自分の理想を叶えてくれるはずと信じ、以前より温めておいたプランを提案し採用された。金額は予算を超えたが、クライアントは喜んでくれていた。
会社に戻り、代表がいたのでそのことを報告すると、大きな売上の成果にとても喜んでいた。そして、間もなく上司が帰ってきたので報告をした。契約までの流れについて相談に乗ってもらっていたので、どのクライアントかはすぐにわかった。そして、信じられない返答があった。
「このプラン、費用対効果はどれだけ見込んでる? あとクライアントはそのとき、冷静に考えられる状態だった? 矢内くん自身がやりたいことを、予算を持つクライアントに押し付けただけなんじゃないの?」
何かいいわけをしなくてはと考えたが、あまりにも心を見透かされたようで、何も答えられなかった。大きな売上の契約を決めたという事実があれば、むしろ褒めてくれるものと思っていた。
「いつも言っていただろう! 目先じゃなくて長い目で考えろ! クライアントは今だけよければいいわけじゃない! クライアントに価値を与えられて、初めて対価がもらえるんだ! 自分勝手な考えで相手の予算と時間を奪うんじゃない!」
心がえぐられるようだった。上司からの期待と信頼が、ガラガラ崩れるような気さえした。自分には慢心があったことを、はっきりと突きつけられた。次の打ち合わせがあったので、カバンに資料をまとめ、急いで出ようとした。上司に涙が見えないようにすることに必死だった。何より、悔しくて仕方がなかった。
このとき、売上さえあれば文句を言われることはないであろうと考えていた自分の中で、純粋に、ひたむきにクライアントの声に耳を傾けていた過去の自分の姿が浮かんでいた。売れれば売れるほど、もっと大きなことに挑戦してみたくなってしまう自分は嫌いではなかった。しかしクライアントの未来を担っていることを忘れてしまっていたことは、直ちに認めるしかなかった。
次の打ち合わせに向かう途中で、クロさんが私に教えようとしてくれていることが、なんとなく見えてきた。それは、「社会で生き抜く力」だった。ずっとこの仕事をやっていくとも限らないし、営業の仕事も続けていくかどうかわからない。クロさんは、仕事を教えるように、生きる力を与えてくれていたのだ。やがて心が軽くなり、感謝だけが残った。
悔し涙は、駅への到着と共に消えていた。
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