大きな大きな夢
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:田中義郎(ライティング・ゼミ日曜コース)
「こんなはずじゃなかった。このような事態になろうとは夢にも思わなかった」
奥田は弱音を吐いた。
「地方銀行合併は数年前から動き出している。さっきから何度も言っているが、すべての地銀(地方銀行)が合併するわけでない。だから君が心配する事態になるとは限らない。君の話にこれ以上付き合っていられない。ぼくは帰るよ」
澤崎はそっけなく言った。
奥田は洛東銀行の融資部長をしていた。密かに頂点を目指していた。
時には自分の意見を胸の中にしまい込み、悪しき慣行にも従いながら、その機会を狙っていた。十中八九思い通りになるはずだった。
ところが最近になって、ほずみ銀行との合併情報が流れた。
相手は地方銀行であるが関西最大手である。形式は合併でも実質は吸収されることになる。自分の今までの努力はすべて水の泡になる。心は揺れ動いていた。
「君に実力があるのなら合併しても君の思い通りなるさ。今問われているのは君の実力なんだよ。実力がないから心配する。自業自得だよ。合併が決まったら連絡してくれ。そのとき考えよう。あまり深刻にならない方がいいよ」
そう言って、澤崎は立ち上がった。
「合併が決まってからでは遅いんだよ」と、奥田はすがったが「じゃあ失敬」と見向きもしないで去っていった。
澤崎と奥田との付き合いは学生時代から数えて30数年になる。
澤崎は証券会社に、奥田は地銀にそれぞれ進んだが、バブル崩壊で会社が破綻し、辛酸をなめたのは澤崎だった。
新しい就職先も簡単に見つからなかった。
澤崎は子供の頃、両親の勧めでピアノを習い始め、一時はピアニストを夢見たこともあった。叶わないことが分かっていてもピアノだけは手放さなかった。職を失ってからはピアノで心を癒していたが、ひらめいたのが「ピアノ調律師」の道だった。
彼は多くの時間を割いて楽器店で調律を学んだ。
妻の恵子のパート収入と今までの蓄えで親子4人の生計を繋いでいった。
ある日、澤崎はその楽器店の店頭で、ヨーロッパでつくられた100年前の中古ピアノが高価格で売られているのを知った。併せて…… 100年前の音に心が奪われた。初めて聞く何とも言えない心地よい音色に心が洗われた。
ここで澤崎の心が固まった。
部品が破損し音が出なくなった100年前のピアノを100年前の音色が出るピアノに再生する技術を習得する。
彼はそれから3年、中古ピアノ再生技術を学んだ。日本で有数のピアノ再生技師を探し当て、遠く離れた地に赴き、師の厳しい教えと貧困に独りで耐え抜いた。技術習得の手応えだけが唯一つの心の支えだった。
澤崎は満を持して起業した。
愚痴も言わず、黙々と働いてくれた恵子に恩返しできるのが嬉しかった。
待望の「ピアノ調律師」のお店をオープンし、喜びに涙してくれたのも彼女だった。
職を失ってから10数年経過していた。
お店は閉店した商店を廉価で借り受けリニューアルした。
お店は「たった一台のピアノ」のディスプレイと中古ピアノの再生と調律のスペースに充てた。資金は奥田に頼んだ。
たった一台のピアノは、彼が再生した100年前のピアノだった。自らのピアノ再生と調律技術を「誇示」しながら、技術に見合った価格を設定した。他のピアノ調律師とは一線を画すためだった。音大生やプロを目指すピアニストなどをターゲットにSNSで配信した。
こうして澤崎は「天職」を手に入れた。併せて、技術の研鑽に日々注力することも忘れなかった。
日常は一変し、「自由」も手に入れた。心に平安が戻った。
多忙になったが高い品質を維持するため自分のペースで仕事を進め、来店客にはディスプレイしている100年前のピアノの音色を披露した。
奥田も自分のことのように喜んでくれた。
日本の金利政策が地銀の業績を圧迫している。このことはマスメディアで報じられていた。ただ、奥田が勤務する洛東銀行は、中堅ながら堅実な実績を上げ、合併とは無縁だと澤崎は聞かされていた。
しかし、合併におどおどする奥田に接し印象が変わった。彼が非常に小さく見えた。
その後、何の連絡もない。澤崎は心配になり連絡を入れた。
「新しい情報は何もない」
口火を切ったのは奥田だった。
「合併の話を聞くために連絡したのではない」
「えっ?」奥田は不可解な顔で澤崎を見た。
「合併はときの流れだ。君がいくらわめいても合併するときはする。ぼくが知りたいのは君の考え方だよ、合併に対する君のスタンスだよ」
「……」
「まだ合併で頭がいっぱいなのか? 君はいつからそんな狭量な人間になってしまったんだ」
澤崎は奥田をにらみつけて続けた。
「もし、合併が行われず、君が頭取になったとしても、君の人生に大きな変化があるとは思えない。確かに頭取という肩書が人生を飾ることになるが、いずれ時期が来たら辞める。肩書は長い人生の中で見れば瞬時に消える泡に過ぎないんだよ。君はなぜその泡に人生をかけるのか、それがぼくには理解できない」
「泡か…… 確かにそうかも知れないね。私にもっと実力があったら合併など『くそ食らえ』と一掃していたかも知れない。調律師を目指している君を見てしみじみそう思った。恥ずかしくなった。でも今の私にはあのエネルギーはない」
「奥田! いつからそんなに弱腰になったんだ。55歳で人生を諦めても良いのか!」
奥田は大袈裟に首を横に振った。
澤崎は続けた。
「間もなく人生100歳時代になる。これは他人ごとではないんだよ。大病や事故や災害に会わない限りみんな100歳を覚悟しなければならない時代になった。お袋は90歳を過ぎている。ぼくは末っ子で楽をさせてもらっているが、介護が大変だと聞いている。お袋も今は何とか元気だが、その先どうなるか分からない。残酷な時代にわれわれもいずれ足を踏み入れる。今からその覚悟と準備が必要なんだよ」
奥田は顔を伏せていた。考え込んでいるように見えた。
彼を励ますしかなかった。
澤崎はあたかも独り言のように語り始めた。
「実現できるかどうかわからないけど、ぼくは大きな大きな夢を描いている。途轍もなく大きな夢だ。
いつ頃からか自分のコンサートホールが欲しくなった。田舎でいい。音響装置に惜しげもなくお金を使ってつくる。規模は30人程度。そこで100年前のピアノで、ぼくが演奏するコンサートを月1回開く。調律させて頂いたお客さん、ピアノが大好きな親子、友人や世話になった方、師事した先生には一人で聴いて頂く。できれば年1回はメジャーなピアニストを招致してコンサートを開催する。ホールにどれだけのお金が必要かなど何も分かっていないけれど、90歳までに実現する。笑われるかもしれないが、これがぼくの夢、誰に反対されても実現したい夢なんだ」
奥田は微動だにしなかった。深く考え込んでいるようだった。
暫くして重い口を開いた。
「君の話を聞きながら私も自分の夢を思い出していた。その昔考えていた途轍もない大きな夢を思い出していた。エネルギーがどこからか湧きだし始めたような気分だった。
分かった! 今度逢うときにまでに話ができるようにしておくよ」
奥田はにっこり笑った。久々に見せてくれた笑顔だった。
「今までのことをすべて忘れ自由に振舞うよ。仕事よりこれからの人生の大切さを身に染みて感じたよ。澤崎、有難う!」
「すっと友達でいられるね。長い長い付き合いになるよ」
二人は大きな大きな夢に包み込まれ、言葉はいらなかった。
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