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メディアグランプリ

父がすがった、一冊の本。そして…。


 
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:佐藤城人(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
その夜、自宅の電話が、けたたましく鳴った。
「佐藤様のお宅でしょうか? ご子息様でいらっしゃいますか? こちらの病院に佐藤照夫さんが入院なさっています」
僕はアルコール依存症を患っていたが、照夫という名前を聞いた瞬間、酔いが一気に醒めた。
「確かに佐藤ですが、うちに照夫という者はおりません」
 
僕が14歳のとき、父は家を出て行った。私たち家族は見捨てられた。
あの夏休みの暑い日。カバンひとつで出て行く父の背中を、僕ははっきりと覚えている。
 
もう、20年が過ぎていた。
「でも、照夫さんから、そちらの連絡先を教えていただいたんです。お父様、末期ガンで、もう長くはないんです。入院費を、3ヶ月も滞納なさっていて、こちらとしても…」
病院のケースワーカーの話では、父に付き添っていた女性と連絡が取れなくなり、父から事情を聞いたとのことだった。
 
(今さら父親づらされても困るよな。第一、父親らしいことなんか、何もしてないじゃないか)
14歳のあの日から、僕の人生は大きく狂った。高校や大学の進学、とにかくお金を稼がなければ、何もできない。毎日毎日、バイトの連続だった。
 
(みんな遊んでいるのに、何でこんなに働かなきゃいけないんだ。父さんさえいてくれれば、母さんも姉さんも、家族みんな、こんな目に遭わずに済んだのに…)
そして、自分がアルコール依存症になったことも、父のせいにしていた。上手くいかない人生の、そのすべての原因を父に被せていた。そう、僕は人生に見放されていたのだ。
 
「『罪を憎んで、人を憎まず』って言うだろう。どうだろうね、父さんを赦してくれないかい」母のこのひと言で、入院費を支払うことが決まった。
本当は、母が一番辛い想いを抱えて、この20年を耐えてきたのだろう。時々父から離婚届けが送り付けられているのを、僕は知っていた。
 
ところが、父の人生は、あっけなく幕を閉じた。僕たちが入院費の支払いを済ませた日、他界したのだ。
 
冷たくなった父との再会。
僕は、父の目や口に、そっと触れた。
 
「ねえ、『目には目を。歯には歯を』と言うでしょ。あれは、やられたらやり返す意味じゃないのよ。本当は、相手の目を傷めたら自分の目で償いなさいという意味なの。父さん、自分の命で償ったのかもね」姉がポツリと言った。父親不在という理由で、姉は婚約を一度破談にされている。
 
病院の説明では、父は延命措置を断っていたのだそうだ。
私たち家族が来ることを踏まえた上での決断だったのか、それとも…。
今となっては、誰にもわからない。ただ、60歳そこそこの死。まだまだ生きる選択もあったのではないだろうか。
 
「あなたのお父様、この本をよくお読みになっていました」
荷物のほとんど無い、父の居た病室。
「ガンの患者さんには、『生きる意味』を問う人が多いんですよ」
何度も読み返したのだろうか。ところどころページの端が折られ、くたびれかけたその本を、僕はためらいがちに受け取った。
タイトルは、『夜と霧』
 
パラパラめくると、ページのあちこちに、父のメモ書きが残っていた。僕はいぶかりながらも、読み始めた。
著者のヴィクトール・フランクルは、ナチスの強制収容所に収監される。第二次世界大戦のことだ。わずかな食糧と粗末な衣服。飢えや寒さの中の過酷な労働。
彼らが収監された理由は、ユダヤ人という理由だけだ。人種という理由、それだけだ。
ドイツ兵の銃声や怒号が行き交う日々…。
一人また一人と衰弱し、倒れ、死んでゆく。
 
また、同じユダヤ人同士であっても、弱った者から衣服や履き物を奪う者。ドイツ軍に協力し、仲間を訴える者など、窃盗や裏切りが横行していたようだ。僕は、人間の持つドロドロとした部分に触れたようで、重苦しい気分になっていった。
気持ち悪いと言ってしまえばそれまでだ。でも、生きるか死ぬかの瀬戸際に立てば、人間何をするか、わからない。
 
(どん底だな)
アルコール依存症者は、しばし「どん底」と口にする。飲んだくれた者が最後の最後に辿り着く場所だ。一家離散、離婚、自己破産、失業、精神の破綻…。
死を選ぶ者も少なくない。
依存症者は、自らを極限状態へと追い込んでゆく。
強制収容されるわけではない。でも、生きるか死ぬかの死の淵を徘徊する点では同じだろう。
僕は、収容所と自分の人生を重ねながら読んでいった。
 
『夜と霧』これは、収容所の人々を冷静かつ暖かな眼差しで観察した、一人の精神科医の体験記だ。過酷な収容所暮らしの中、フランクル医師は人生の底において、「生きる意味」を見出す者と、見出せない者の違いに気づく。そして、人生の意味を見出せない者は死にゆき、見出せた者が生き延びると述べる。
 
「それでも人生には意味がある」父のメモだ。筆跡からわかる。
(これまでの人生を振り返り、父さんもいろいろと悩んでいたのか…)
 
悩むことは良くないこと、悩んではいけないと言う人がいる。
ポジティブシンキング、プラス思考が人生を決めると言う人もいる。
でも、本当はそれだけではないはずだ。
悩んで、悩んで、悩み抜く。そして、絶望の淵に立った者にしか見えない景色がある。
それは、悲嘆に暮れた真っ暗な景色かもしれない。でも、その景色は意味の無いものなのだろうか?
 
絶望の先にある景色。これは、自らの運命と向き合って生きる者にのみ見えるのだろう。
 
「人間は常に人生から問いかけられている」、父のメモに目が留まる。
ページをめくる僕の手は止まり、体が小刻みに震えた。
 
僕たちは、とかく人生に何かを求めがちだ。そして、それが叶わないとき、誰かや何かのせいにして、「何てつまらない人生なんだ」とか、「人生なんてこんなものだ」と嘆き、人生に責任を負わせる。
(僕は勝手に人生を諦め、勝手に「どん底だ」と騒いでいるだけじゃないか)
 
収容所の人たちと、自分を重ね合わせたことを、僕は恥じた。
 
僕たちが人生に何かを求めるように、人生も何かを求めているのだ、僕たちに。
僕たちに必要なのは、生きる意味はあるのかと、「人生に問う」ことではない。大切なのは、直面した状況において「人生から問われていること」に真摯に向き合い、その意味を考え、応えていくことなのだ。
 
ゆっくりと丁寧に、自分の体に落とし込むように、数日かけて僕は読み進めた。
 
最後のページにも、父のメモが残っていた。
「人生に絶望することはあっても、人生が私を見捨てることはない」
 
人生からの問い掛けに、父は父なりに応えたのだ。延命措置を望まなかった父は、そこに生きる意味を見出したのだろう。投げやりになったのではなく、絶望の先の景色を見たからだ。
僕たち家族への謝罪の言葉は無かったけれど、僕は父と充分に会話ができた。
 
「父の不在が与えた人生の意味」
出口が見えた。
そして、僕は酒を断つことができた。
 
父の死から20年。
今でも、僕の書斎には、あの『夜と霧』が置かれている。
 
 
 
 
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2019-04-11 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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