人魚姫の足
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記事:前野祐恵(ライティング・ゼミ日曜コース)
10年前の雪が降った日、眩しさに耐えられなくなった。
ここは豪雪地帯だ。雪で真っ白になった田畑が太陽で照らされ、キラキラとまるで宝石のように輝くことは毎年あるし、眩しさを感じてはいたのだが、こんなに眼を開けられなるほど辛く感じることなどなかった。眼が疲れているのかもしれない。明日になれば…… 休日になれば…… 日が経てば…… 冬が終われば、そのうち……
春が来ても同じだった。春霞にさえ激しく眩しさを感じる。
やっと、眼科に行く決意をした。
「こりゃ、ひどい! 角膜がすりガラスだよ。それにすごく薄くなっている。もうコンタクトレンズは使わないほうがいい」ドクターの言葉に愕然とした。
幼い頃から眼鏡では間に合わないくらい視力が悪く、中学生の頃からコンタクトレンズを使っていた。40年前、田舎の中学生でコンタクトレンズをつけている子など珍しく、少なくとも200数十人いた同級生の中では私ひとりだった。レンズも今のように、ワンデーやらツゥーウィークやら、バラエティに富んでいるわけでもなく、ハードとソフトくらいしかなかった時代。私は勧められるままハードタイプのコンタクトレンズを使った。
世界が変った。
大袈裟な言い方かも知れないが、私にとってはそれくらいの出来事だった。
ぼんやりとして境目のはっきりしないパステル画のような世界で生きていたのに……遠くからでも黒板の字や人の顔、月や星もくっきり見えた。単色で平面だと思っていた山の木々、海のさざ波、空に流れる雲も複雑な色の組み合わせで立体なのだと知る。いきなり2Dから3D、4K、8Kのスーパーハイビジョンの世界に放り込まれた私は、ただただ世界の美しさに感動した。生まれてきて良かった。ほの暗い海の底から、地上の明るい人間界に辿りついた人魚姫の気分だ。
ハードレンズはソフトレンズより異物が眼に入ったときは相当痛い。埃やまつ毛が入ろうものなら、眼球を取り出して水洗いしたくなる衝動に駆られるほどだ。だが、人魚姫の足の痛さに比べれば、このくらい耐えなければならない。
体育の授業や運動会は要注意で、強風でコンタクトが飛ばされないか気が気ではなかった。どんなに気をつけていても眼が乾燥していて、落としてしまうこともあり「動かないで!」と、場を騒然とさせること数知れず。それすら、声も出せず伝えることができなかった人魚姫に比べれば幸せなことだろう。
私にとってコンタクトレンズはもはや体の一部で、なくてはならないアイテムとなっていた。コンタクトレンズは私にとって、人魚姫が声と引き換えに魔法使いからもらった足なのだ。私の角膜を徐々にすり減らし傷つけてはいったが、30年間の長きに亘り、私にこの世界を見せ続けてくれたのだ。
眼科で「もう使わないほうが……」と言われた時には途方にくれたが、魔法使いに角膜を持っていかれる前でよかった。
これからのことを考え眼鏡をかけてみた。やたら分厚いレンズで頭痛がするし、レンズの隙間から見える裸眼との落差で車の運転も階段の上り下りも全てが危険に思えた。
「どうしても、コンタクトレンズが無理ならレーシック手術してください」
と、ドクターに頼み込んだ。
「あなたの薄い角膜ではレーシックはできない。角膜の傷は治ったとしても、薄くなったのは戻りません」
万事休すだ。頭痛を我慢しながら眼鏡で生きていくしかない。のか。
ドクターが泣きそうな私を見つめ、ボソッと囁いた。
「どうしても、近視を直したい?」
「はい。どうしても」
「一つだけ方法があります。ただ……」
「ただ?」
「近くのものが見えにくくなります。水晶体を人工の水晶体と入れ替えるのです」
「簡単に言うと白内障の手術です」
「白内障手術というと、お年寄りがよくする?」
「そう。老眼になりますが、近視はよくなります」
「先生! お願いします。その手術やってください」
即答だった。最良の方法だと思った。老眼になるくらい構わない! 考えてみれば友人の数人はすでに老眼だ。
角膜の状態がよくなるのを待ちながら、数回の検査を重ね、とうとう白内障手術の日になった。視力は裸眼で車の運転ができる程度に合わせてもらうことにした。手術時間にして15分程度の手術だった。眼の中の水晶体と引き換えに、人工水晶体が代りに入れられた。
手術が終わってしばらくで、パステル画の世界から地上デジ放送の世界になった。感染を防ぐため、大きなゴーグルでガードして数日過ごした。人工レンズに眼が慣れてきた頃ゴーグルを外し、外に出てみた。やはりスーパーハイビジョンとまではいかないが、これで十分。近くは見づらいけど、雑貨屋さんでも売っている度数の低い老眼鏡でよく見える。
あれから10年、今も魔法使いから引き換えにもらった人工水晶体はちゃんと機能しているが、最近、糸くずや小さな虫みたいなものが、ふわっと目の前を横切る度合いが増えてきたように思う。クオリティは悪くなってきている。でも決して贅沢は言わない。大切に使い続ける。今のところは大丈夫。
大丈夫じゃなくなったら? さて、次は何と交換しよう。
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