カラダを取り戻した話
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:河上 弥生(ライティング・ゼミ日曜コース)
「どうしよう……」
自分の手が、あるべきところに全く見えない。地面のほうに視線をやっても、自分の脚も、全く見えない。それどころか、進むべき足元の道じたい、見えないのだ。
それは、ジョンを散歩に連れ出した、ある晩のことだった。長野県の木曽駒ケ岳高原の山道で、私は途方に暮れていた。
ジョンは、山のユースホステルで飼われていたイヌだ。茶色くて、しっぽがくるんと巻いていて、見知らぬひとが来るとかならず吠え、小柄ながらも立派に番犬の役割を果たしていた。
私は3ヶ月ほど、そのユースホステルに住み込んで働いていた。私の担当は、お客さんの朝食・夕食の準備と配膳、シーツを洗って干してたたむこと、宿泊室・お風呂場の清掃だった。毎晩のジョンの散歩は、いつも別の男性スタッフが担当していたのだが、その日は私が頼まれたのだ。
私は、ジョンが怖かった。小さい頃のイヌ体験のせいだ。そのイヌは、おとなたちが私と一緒にいたときはしっぽをブンブン降って友好的だったのに、おとなたちが去ったとたん、小学生だった私の手をガブリと噛んだのだった。
ジョンの散歩の時間が迫り、怖じ気づく私に、ユースホステルの女主人が
「だいじょうぶだってば。ジョンは絶対ヒトを噛まないから」
と、笑顔で私にリードを渡した。
「わたし、散歩コースが、わからないんですけど……」
「ああ、道は、ジョンが知っているから心配ないわ」
この業務から逃れることに失敗した私は、ジョンの首輪に触るのも恐ろしかった。時々、ゴハンやお水をあげたりはしていたけれど、ろくに接したことがなかったのだ。しかも、夜で、わたしはひとりだ。ジョンは、私の不安を見抜いたのか、ちょっとしっぽを振り、腰をおろして、私が首輪にリードをつけ終えるのをしずかに待っていた。
「行こうか、ジョン?」
少しだけホッとした私の前を、かれはリードを引っ張ることもなく、こっちだよ、とでも言うように、トコトコ歩き始めた。
どんどん、ユースホステルから遠く離れていく。まばらな人家の明かりも、あとにする。舗装された道からはずれて、急に土の匂いが強くなる。
ジョンの散歩道は、細い山道だった。大きな樹々が、風に揺れている。
道の脇を、山の湧き水が、細い川となって流れている。
もちろん、街灯など、ない。明かりといえば、夜空にかがやく月と星だけだ。
散歩中、ジョンが走り出したりしたら、コントロールできないのではないかと不安を感じていた私だったが、それはまったくの取り越し苦労だった。ジョンは、紳士だった。かれが気分良さげにトコトコ歩いているので、私もだんだんとリラックスしてきた。8月の山の夜は寒く、私は長袖のトレーナーを着ていた。ジョンと歩くにつれ、からだも温まってきた。
私が気分良くなったのもつかの間、ある瞬間、急に、辺りがみるみる暗くなった。
雲が、月や星を隠しはじめたのだ。まるで、誰かが合図したみたいに。あっという間に月のひかりはぬぐい去られた。
「え? えええ?!」
山道は、文字通り、墨汁のような、真っ黒けの闇と化した。
何も、見えなくなってしまった。
自分の腕も、手も、足も、見えない。リードも、ジョンも、道も、見えない。
わたしは、そのとき、カラダを見失った。自分というものが、真っ黒けの中に溶けてしまい、真っ黒けと、わたしとの境目は、なくなっていた。
それと引き換えるように、音が、急にあざやかに響きはじめた。
ジョンの呼吸の音。ジョンと私のそれぞれの足が土を踏む音。リードと首輪をつなぐ金具がカチャカチャ揺れる音。樹々の葉がざわめく音。風の音。
そして、道の脇を流れる、山の湧き水の音。清流が、わたしの中を洗うように流れ去る。
夜の真っ黒けに溶けてしまった私は、何かに浮かんでいるような、実に妙な心地だった。方向感覚は、完全に失われていた。確かなものは、自分の履いたスニーカーの裏の地面の感覚。それと、左手に握ったリードのざらりとした感触。
どうしよう。どうしよう。懐中電灯なんて持ってきていないよ。
まさか、こんなことが起こるなんて。
進む方向を間違えたら、ジョンともども、山の道から転落してしまう。
まったく、なにも見えない、という初めてのことに圧倒され、私は、たぶん、立ち止まろうとしたはずだ。が、不思議な事に、私の足は、なんのためらいもなく動き続けていた。なにかが私を歩かせていた。
ジョンだ。
かれは、ペースを何ら崩すことなく、淡々と、真っ黒けの中を歩き続けていた。
ジョンと、はぐれたら、もう私は一巻の終わりだ。私は、リードを固く握りしめた。
ジョンは、墨汁の闇のなかをサクサク歩いて私を導いてゆく。イヌの眼には、世界が見えているのだろうか? ヒトの、なんと非力なことよ。私は、かれの完全なる従者だった。ジョンが鬼退治にいく桃太郎で、私がイヌだ。
なおも、ジョンの呼吸、ジョンと私の歩み、山を吹きわたる風、樹々の葉のざわめき、澄んだ清流が、真っ黒けのわたしの中を流れ去ってゆく。
わたしのカラダがなくなっていたのは、時間にしてどのくらいだったのだろう。
ふと、真っ黒けの中に、ジョンの巻いたしっぽと、おしりが見えたような気がした。
そして、ジョンのリードを持つわたしの手が、ぼうっと、ほの白く浮かびあがりはじめた。
夜空が、ゆっくりと晴れてゆく。ふたたび、月のひかりが、私とジョンと山道を澄んだ白さで照らし始め、私はカラダを取り戻した。
そして、遠くに見えるユースホステルの温かい灯り。ジョンは、私を無事に連れ帰ってくれた。
あの、ひとつぶのひかりも無い闇と自分がひとつになった経験は、あれが最初で最後だ。
それまでイヌは苦手だったけれど、人間に寄り添ってくれるイヌの存在は、本当にありがたいものなのだなあ、と、実感し、腑に落ちた時間だった。ジョンのことは、一生、忘れない。
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