白いブラウスを着るための日
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【8月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:谷中田 千恵(ライティング・ゼミ日曜コース)
※この話はフィクションです。
路線バスが、駅前に着くことを告げた時、裕子さんはスマートフォンの画面を見つめていた。
「どうしよう」
ジェルネイルで整えたきれいな爪で、スマートフォンの縁をツルツルとなぞる。
勤める県庁から、裕子さんの自宅まではバスで30分だ。
帰宅ラッシュと呼ばれる時間でも、今日はうまく席を見つけることができた。
裕子さんは、揺れる座席に深く座りなおし、もう一度スマートフォンの画面を見つめた。
「今度の土曜、八幡山公園のホタルを見に行きませんか?」
メッセージが届いたのは、昼休みも終わりの頃だった。
動揺した裕子さんは、返信しないまま帰宅の時間を迎えた。
後ろの席の男性のいびきを聞きながら、デートの誘いなんて、いつぶりだろうと、裕子さんは考える。
30歳を目前にした頃から、結婚という言葉は、何度も裕子さんの心に傷をつけた。
少しずつ、友人たちの結婚を手放しで喜べなくなり、大きな焦りが波のように押し寄せた。周りの結婚ラッシュが落ち着いてからは、変な焦燥感は無くなったが、それでも友人の家庭の話は、チクチクと傷口を刺激し続けた。
裕子さんの心は、傷ついては、かさぶたを作りを何度も繰り返した。
5年前の彼氏との別れもそうだった。
結婚するかしないか散々もめて、結果、相手が別の人に心変わりしたことは、それはそれは深い傷となった。
その深い傷とじっと向き合い数年過ごすと、傷口は分厚い皮膚でおおわれることになった。
42歳を迎えた今、周囲の人たちのどんな言葉も、もはや裕子さんの傷口を痛めることはできない。
厚い皮膚に守られていることに、裕子さんはとても安心していた。
両親との3人暮らしは、とても気楽なものだし、たまに遊びに来る、妹夫婦の10歳になる娘はたまらなく可愛い。
仕事だって、出世コースからこそは外れてしまっているかもしれないが、やりがいを感じている。一つのプロジェクトを終えた時の充足感は、恋愛では得られないものだと思っていた。
もちろん、寂しいと感じる気持ちがないわけではない。
休みの日に、一緒に時間を共有する恋人がいたならば、どんなに楽しいだろうと想像する。
でも、そう思う以上に、傷口がまた痛むことの方が怖かった。
分厚い皮膚を切り裂き、血がにじむようなことが今度やってきたならば、次は立ち直れないのではないかと、裕子さんは思っていた。
「どうしよう」
バスの料金表を見ながら、心の中で、もう一度小さくつぶやいた。
アナウンスは、もみじ通りの停留所で降りる人へ、ボタンの合図を促している。
メッセージの送り主の健二さんとは、先週、知り合った。
同じ部署の先輩に、何人かで食事会に行かないかと誘われたが、参加してみると、裕子さんに健二さんを紹介するために開催されたことは明らかだった。
そんな意図を感じても、食事会はとても楽しいものだった。
人見知りで、初対面の人と話すことが苦手な裕子さんでも、不思議と健二さんとは落ち着いて話すことができた。
バツイチだとは聞いていたが、何度か交わしたたわいないメールも、真面目な人柄がにじみ出ていて、裕子さんは好感を持っていた。
もう一度、話してみたい気持ちがないわけではない。
それでも、傷口がかすかにうずくのを忘れられない。
だいたい、今更デートにどんな服装で行ったらいいかわからないと裕子さんは思う。
あの花柄のワンピースは、とても気に入っているけれど公園へ行くのに、派手すぎやしないか。かと言って、デニムではカジュアルすぎる。何より、パンツスタイルは、体型をカバーできない。
つり革が揺れるのを見上げながら、裕子さんは眉間にしわを寄せた。
バスは、もみじ通りへの到着を告げ、車体を大きく揺らし動きを止めた。
独特の音ともに、前後、2カ所の扉が開く。同時に、何人かが、立ち上がり前方へ歩き出した。
かすかに冷たい外の風が、通路を歩き始めた女性の、白いリネンのロングスカートをふわりと広げた。
裕子さんは、ハッとする。
先月買った、あの白いブラウスはどうだろう。
それは、デパートをブラブラしていて、見つけたものだった。
袖がふんわりとしていて、レースになっている。
仕事に着て行くには、かわいらしすぎるデザインだったが、リボンやレースが昔から好きな裕子さんは一目で気に入った。
ちょっといい値段だったので、随分と悩んだ割に、着る機会がないので、袋に入ったままクローゼットの隅においてある。
あれを着るなら、スカートはベージュのフレアにしよう。
あの公園は、階段が多いし、足元は、ヒールのないバレエシューズがいいかもしれない。バックに、きれいな色を少し足したいな。
裕子さんは、考える。
あのブラウスを着るための日だと思おう。
今度の土曜日は、あの白いブラウスを着るための日。
だから、大丈夫。白いブラウスを着れただけで、目的は達成されている。
傷つくことなどなにも無い。
裕子さんは、メッセージを打ち始めた。
「いいですね。どこに集合しましょうか」
うっすらと夕暮れの色に染まりながら、バスは、すでに走り出していた。
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