笑顔だけが取り柄だから
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記事:水口綾香(ライティング・ゼミ日曜コース)
私は作文の課題が大っ嫌いだった。中でも一番嫌だった作文のテーマを今でも覚えている。
―尊敬する人―中学生のころの課題だ。
作文そのものもあまり好きではなかったが、まるで尊敬できる大人がいることが当たり前のような感覚を押し付けられているような気がして嫌だった。
歴史上の偉大な人物の本を読んで、ありきたりな言葉を並べれば課題は完成する。
でもそんな偉大な人物は遠い遠い昔の人であって、伝記でしか知ることのないその人は、私にはまったく接点が感じられなかった。「すごいですね」程度の薄い感想は尊敬というには程遠かった。
世の中の仕組みがおかしいと思って質問したところで、法律で決まっているからとか、校則だからとしか返してこない先生たち。ルールはルールというばかりで自分で考えた答えを返してくれる大人は周りにはいなかった。
家に帰ればろれつが回らない口でバカとかのろましか言ってこない父親。
誰を尊敬しろというのだろう。どこを尊敬すればいいのだろう。
内心では、そんな課題を出すぐらいなら、まずは尊敬できる大人がどんな人か、実際に連れてきて紹介してほしい気持ちでいっぱいだった。
こんな原稿用紙、ビリビリになっていっそ花吹雪みたいにパッと散ったらキレイなのに。そんなことを思いながら読む気もない伝記の本をひらいた。
我ながら、なかなかにひねくれた中学生だったと思う。でも、端から見たらそうでもなかったようで、同級生からはいつも笑顔だねとか幸せそうだとか言われていた。少女漫画のように私の背後にはお花畑に見えるとさえ言われていた。自分では全く自覚はないが、それぐらい笑顔でいたようだ。笑顔だけが取り柄。そんな中学生だった。
その取り柄は大人になるまで続いた。社会人になって最初に配属先が言い渡された時、上司から言われた言葉は今でも忘れられない。
「君ってさ、バカだよね。でもその笑顔はいいよね。その笑顔に警戒する人、いないよ。それってものすごい強みだよ」
誉められているのかけなされているのか分からなかったが、自覚のない笑顔はどうやら私の武器のようだ。逆に言うとそれしかなかった。バカの一つ覚えで、相変わらず笑顔だけが取り柄だった。
そんな私も社会人になって大人の苦労がわかるようになり、中学生の時ほど先生や親がとってきた態度が分からなくもない、と思えるようになった。
結婚して、子どももできて、人生のステージが進むたびに、笑ってばかりいられないような日も増えた。
私、いつからこんなに笑えなくなったんだろう。
気がつけば以前ほどうまく笑えない自分がいた。唯一の強みである笑顔が消えかけていた。
ちょっと疲れている。少し休もう。
そう思って、母と久しぶりに世間話をした。何気ないたわいもない会話にホッとしていた。
「そういえばこの間ね、職場で顔を合わせるおじさんが、 『お前、いつも笑顔だからこれやる』って箱いっぱいの梨とお歳暮のジュースをくれたのよ! 『おまえは美味しそうに食べそうだから』って」
母の言葉に私は耳を疑った。この時母は50をとうに超えた、アラ環のおばさんだった。それが笑顔だけで食べ物を手に入れたというのだ。このご時世に、だ。しかもその後数か月たっても、何の見返りも要求されなかったそうだ。
こんなことってあり得るだろうか? 母はどちらかというとタヌキ顔で、美人ではなかった。けっして裕福なお嬢様育ちでもなかった。この話を聞くまでに父とも離婚し、私の目から見ても、私が母の立場じゃなくて良かったと思うほど苦労の多い人生を送ってきていた。そんなおばさんが、笑顔だけで顔を合わせる程度の人から食べ物を手に入れたのだ。
母は嬉しそうに会話をつづけている。
私は会話を遮って、母に詰め寄った。
「ねぇ、本当に笑顔だけで食べ物もらったの?以前に仕事で融通したとか、ないの?」
「うん、最近部署移動できた人だから、仕事のお礼でもないねぇ」
笑顔だけでアラ環のおばさんが食べ物を手に入れるなんて、私にとっては伝記の偉人が成し遂げた功績と同じぐらいの快挙に思えた。食べ物をもらう瞬間だけ笑顔でいたのではなく、きっと、そのおじさんの目に留まったどの瞬間も「美味しそうに食べそうな笑顔」だったのだろう。誰にでも簡単に実現できることではない。
私はこの時生まれて初めて、心の底から尊敬する人ができた。
さて、私はというと相変わらず以前ほど笑ってばかりいられない日々が続いている。それでも中学生の時のように「いつみても笑顔だね」と言われることがまた増えてきている気がする。身の丈に合った尊敬する人の存在ができたことで、私もアラ環で食べ物をもらえるぐらいいつも笑顔でいたいと思えるようになった。母にできたなら、きっと私にもできる。ささやかな目標ができた。
鏡をのぞけば、中学生のころの母に似てきた私がうつる。
うーん。母はもっと笑いジワが多かったな。私の笑顔はまだまだ修行中だ。
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