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医師と患者の家族のコミュニケーションの重要性


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記事:岡田ゆり子(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
「お父さんが、危篤なんや」
 
電話から聞こえる弟の声は震えていた。その時、日本は夜中の二時。
 
「手術も無事に終了し、その翌日には立って歩く練習もしていた。父は、早く元気になって、孫に会えるのを楽しみにしている」
 
と母から昨日連絡があったばかりだった。あまりの父の急変に私の思考はついていかなかった。
 
「回復してたんじゃないの?
命に関わる状態だとは聞いてなかったのに、どういうこと?」
 
「よくわからない。大量出血で、病院から連絡が来たときは意識がなくなってたそうなんや」
 
その時、弟と母は病院にいて、担当医が心臓マッサージなどの蘇生措置を行っているとのことだった。私は外出中だったが、何も手につかなくなり、呆然とその場に立ち尽くした。
 
数分後、弟からの電話で、父が亡くなったことを知る。死因は「失血死」だった。
 

 
父が亡くなる三週間ほど前、母から「父が救急車で病院に運ばれて入院した」と連絡が入った。以前に入れた人工血管の周辺が炎症を起こしているので、それを取り除き血管のバイパス手術をするということだった。
 
当時七十三歳だった父は、それまでにも二年に一回ほどの頻度で皮膚の病気や血液の病気で入院していた。いつも治療後は順調に回復して退院していたので、今回もまた完治するだろうと私は考えていた。
 
私はアメリカに住んでいるため、すぐに父の見舞いに行くことができない。だから、母に毎日電話で父の容態を確認した。ガンなどの病気ではないけれど、父も老齢のため何があるかわからない。私が一番知りたかったのは、父の状況が「命に関わることかどうか」ということだった。もし、医師からそのように告げられていたとしたら、すぐに子供を連れて日本に帰り、父に孫と過ごさせたり、側で看病したり話をしたりして、悔いのない行動を取りたかったからだ。
 
母は私の問に対して、毎回「医師からは、命に関わる状態だとは言われていない」と疲れた声で繰り返した。私はそれを信じるしかなかった。
 

 
医師や看護師は、父に対してできる範囲で最善を尽くしてくださったのだろうと思う。父が昼間に出血していたら、助かっていただろうということも素人ながらに推測できた。ただ、いくつか不明点があったし、「命に関わる状態」とは聞いていなかったのに、父が死んでしまったことに対して、直接担当医から説明を受けたいと思った。
 
不明点を確認したところで父が生き返るわけではない。人は生まれてきた限りはいつか死ぬ。だから医師を責めるとか法的に訴えるつもりなど全く無かった。ただ、自分自信がもやもやした気持ちを抱えたままでは、父を失った悲しみを克服することはできないような気がした。それに、父と最後の別れができなかった事が、無念で仕方がなかったし、父も可愛がっていた孫に最後に会えなかったことは、無念だったに違いないと思った。
 
私は日本に帰国後、疑問点を書面にまとめ、医師に面談を申し込んだ。
 
弟を同伴し、担当医と対峙した。一つづつ不明点を担当医に確認する。医師がそれに対して状況を説明する。パズルを埋めていくかのように、不明点だったところが視覚化されて私の腑に落ちていく。最後に私は聞いた。
 
「なぜ、手術後、父が死ぬかもしれないということを母に伝えてくれなかったんですか?」
 
「それについてはお母さんに伝えました。もしもの事があるかもしれないと」
 
担当医と、患者とその家族とのコミュニケーションというものは、命綱のようなものだと思う。医師が明確に、治療とそれに伴うリスクを患者とその家族に伝えていれば、患者が命を失ったとしても、患者の家族はその命綱を使って、状況を理解し、死を受け入れて、自力で精神的に這い上がってくることができる。しかし、きちんとコミュニケーションが取られていなければ、言い換えると、命綱を付けていなければ、大切な家族を失った患者の家族の気持ちは救われず、気持ちを元の状態に戻すのには、長い歳月を要してしまうように思われるからだ。
 
医師は母に説明していた。命綱を巻いてくれてはいたが、安全ロックがかかっていなかったように思われた。
 
今回の件に関しては、担当医と母との間に誤解が生じていたことがわかった。冷静に考えれば、母は手術前に、術後に死亡する可能性があると書いた書類に署名もしていただろう。ただ、老齢で夫の状況を理解するのにも一苦労の母は、医師が言った「もしもの場合」が「死亡する」につながらなかったのかもしれない。あるいは、夫を失うかもしれないというということを受け入れられずに、あえて、その二つの言葉を意図的につなげなかったのかもしれない。
 
私は担当医に、「老齢の患者の家族に説明する場合は、遠回しな言い方ではなく、はっきりと言葉で表してもらえたほうが良かったのではないでしょうか」と伝えた。私のような患者の一家族が、医師に意見をすることは、間違っているのかもしれない。でも、医師と患者の家族とのミスコミュニケーションをこれ以上増やしてほしくなかったのだ。
 
医師に面談を申し込むことは勇気が必要だったが、状況を理解でき、崖から落ちて谷底で彷徨い続けていた精神状態から、救助を受けてロープで引き上げてもらったように、気持ちが楽になった。その後は次第に父の死を受け入れることができるようになった。
 
あれから数年が経った。先日、医大生の息子さんがいる知人から、最近では、医大生も患者とのコミュニケーションが重要課題になっていて、カリキュラムでもそれに時間が割かれていると教えてくれた。このような社会の動きを知り、父の死が無駄にならないような気がして少し嬉しく思った。
 
 
 
 
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2019-09-12 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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