一人じゃないよと、ドクターは石を受け止めてくれた《週刊READING LIFE Vol,90 この作家がおもしろい》
記事:緒方愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
「……もうダメだ」
今年の初春のこと。外ははやくも春の陽気で、少し汗ばむくらい。外出日和のいいお天気。なのに、私は、産婦人科の待合室で、紙のように白い顔をうつむかせて震えていた。時間を潰すために、備え付けの雑誌を一冊手に取り、開いて見たけれど。流行りの服も、映えるスイーツも、私の心を癒やしてくれない。落ち窪んだ目を懸命に動かすけれど、まったく内容が頭の中に入って来なかった。
「緒方さん、お手紙ですよ」
一ヶ月前、会社の事務の方が封筒を手渡してくれた。何だろうと、白い大きな封筒の裏を返せば、見覚えのある名前が印字してある。先日、会社の規定の健康診断を受けた病院だった。もう結果が出たのかと、軽い気持ちで封を切る。数字がたくさん書かれた大きな紙と、小さな封筒が入っていた。首をひねりながら、診断結果に目を通す。上の方に、太字で書かれた文言を読み、ギョッとする。
血液検査、要再検査。
慌てて、詳細に目を通す。どうやら、血液のある要素の値が平均より低く、貧血であるということらしい。私は、胸をなでおろした。
なんだ、貧血か。それなら、昨年も、低かったし、大したことないや。
そう思いながら、さらに目を通し、再度私は目を見開いた。
不正出血の可能性あり。一週間以内に、専門機関で精密検査を受けられてください。
震える手で、血液の項目をじっくりと読む。二年連続で、平均値より数値が低い。いや、昨年より、値が下がっている。
不正出血。
体内のどこかで、血液が漏れているかもしれない。私の体のどこかで異変が起きているかもしれないということ。「一週間以内」に、なんて書かれたことは今までない。これは急を要するということだ。
つまり、命に関わることもあるということだろうか。
脳裏に、祖母の顔が浮かんだ。
数年前、私は大好きな祖母を大腸がんで亡くしている。80歳を越えても、ハツラツとして、大きな病気をしたことがない元気な人だった。だが、ある時、血尿が出たのだという。地元の小さな病院に診てもらったが、「膀胱炎でしょう」と言われ、漢方などを処方された。だが、一向に症状は治まらず、悪化する一方。
これは、おかしい。
家族が付き添い、大きな病院で精密検査を受けた。主治医から告げられた残酷な現実。
S字結腸・大腸がんのステージ4。体のさまざま部位に転移していた。余命もわからない、いつ何が起こるかわからない、末期の状態だった。
腸は、痛みを感じることがなく、「沈黙の臓器」と呼ばれる肝臓と同じ。異変を感じた時にはもう手遅れ、ということが多いのだという。
私も、死んでしまうのだろうか。
まだ会社にいるというのに、私は一人、ひっそりと涙を零した。
血尿、は出ていない。
だが、体の不調を本当はずっと感じていた。
体の疲れが取れないのだ。
早めに就寝しても、朝はぐったりしている。意識はあるのに、どうにもまぶたが上がらないし、体が動かない。毎朝、朦朧としながら朝ごはんを食べ、バスに乗り、会社の最寄りバス停につくまで、死んだように寝ていた。帰宅したら、疲労困憊。はやく風呂に入って、寝なければ。頭ではわかっているのに、体が動かない。ただぼんやりと、部屋の真ん中にぺたんと座り込み、無意味な時間を過ごしていた。やる気もなんだか起きない。体を動かさなければ、と思うのに、外出する元気と気力が湧いてこない。それなら、読書でも、と思うのにそれすらできない。また、抜け殻のように座り込んでいる。ギリギリ、スマートフォンでSNSを楽しむことはできた。友人たちの楽しそうな日常を流し見すると、少し元気が出る。だが、反面、「みんなは楽しそうなのに、なぜ私は何もできないのだろう」と胸に詰まる。
憂鬱で怠惰な日々を、どうすることもできず繰り返す。
もし、これが、体のSOSだったのだとしたら。
真実を知るのは恐ろしい。だが、まだ間に合うかもしれない。死にたくないのなら、行動しなければ。週末、朝一に、胃腸内科に飛び込んだ。
血液検査、検便、胃カメラ。さまざまな検査を受けた。すべての検査結果がわかるまで2週間ほどかかっただろうか。その間、私はもう、精神的疲労でフラフラだった。もともと、心配性だったこともある。不眠症のような状態にもなってしまった。
もしかしたら、でも何にもないかも。いや、もしも……。
頭の中で、同じ思考がぐるぐる回る。
私のメンタルの降下が止まらない。急勾配の雪山を転がる、石のよう。不安という雪を巻き込みながらどんどん大きく、速度を増してゴロンゴロンと落ちていく。下へ下へと、暗闇に向かって落ちていく。
実は、健康診断で引っかかってしまったことも、病院へ検査に行っていることも、家族には秘密にしていた。
それは、もしも、を考えたからだ。
祖母の時も、母は大きなショックを受けていた。もしも、娘も……となったら、どうなってしまうのか。考えただけでも恐ろしかった。
もしも、があったら、私は自分一人で。私は、そう、思いつめていた。
「緒方さん、どうぞ」
看護師さんの声に、ハッと顔を上げる。よろめきながら、診察室へ入る。ドクターの前には、内視鏡の静止画が映し出されている。血液検査の結果がすっと前に出された。
「緒方さん、検査の結果、異常はありませんでした。胃腸もとてもきれいです」
「ほ、本当ですか!?」
思わず、声が震える。
「でも、やはり、貧血のままですね。念の為、産婦人科にも行かれてください」
「え、さ、産婦人科?」
喜びの涙が一瞬で引っ込む。
産婦人科。
ここに行くのは、女性にとって大変勇気がいるのだ。妊娠などの喜ばしいこと以外では戸を叩くのは、なるべく避けたい。検査の方法も独特であることも関係するが、もう一つ不安なことがある。知人に、子宮内膜症を患った女性がいた。大変な痛みを伴ったそうで、術後も苦しんだとのこと。彼女の体があまり丈夫な質でなかったことも関係するかもしれないが、話を聞くだけで恐ろしかった。子宮の痛みというのは、内臓が引き絞られるように、体全体がミシミシ、ジクジクと悲鳴を上げるように痛むのだ。生理痛より重い痛みだそうで。生理のない男性にはピンとこないかもしれないが、生理痛は非常に辛く、人によっては気絶したり、身動きがまったくできなくなる。それより辛いなんて。
子宮内膜症は、珍し病気ではない。私がもしかしたら、という可能性も大いにある。
「すいません、診察の予約がしたいのですが」
「え、予約ですか? 電話でもできますよ?」
「あ、はい、知っていたのですが、直接来たほうが安心な気がして」
私はもう、まったく平常心ではなかったのだろう。産婦人科に直接出向き、窓口で診察予約をしようとした。まるで、商品の予約をするように、ふらりと入って来た患者。しかも、顔面蒼白。奥から、女性の看護師さんが出てきて、私を個室に案内して話を聞いてくれた。私は、カバンから案内状を取り出し、診断書を指差しながらボソボソとこれまでの経緯を、自分の罪状を述べるように話す。親身になって彼女は話を聞いてくれた。そして、私に待合室で待つように言った。しばらくして、診察キャンセルが出たので今から検査を受けてみませんか、と笑顔で私に告げた。
突然のことに、嬉しい反面、顔が強ばる。ギクシャクしながら、診察室に入った。ゴロンゴロンと石が転がる幻聴がした。
「緒方さん、子宮はとてもきれいでした。心配しなくて大丈夫ですよ」
先生が、にっこりと私に告げる。
「あ、ありがとうございます」
半泣きで頭を下げる。先生が、小さな冊子を取り出した。
「女性の多くは、月経(生理)の時、貧血になりやすいんです。緒方さんの場合、体質的に日常的に欠乏しやすいのかもしれません」
冊子を開くと、女生と貧血のこと、その改善方法が書いてある。処方薬での治療、サプリメント、食事療法などで改善できるとのこと。私は、薬の副作用が人より大きく出る。面談の結果、食事療法でのゆるやかな治療を行うことになった。
帰路を行くバスの中で、脱力して窓にしなだれる。異常がなかったことへの安堵、そして不安。
本当に、私は健康なのだろうか。貧血なだけなのに、こんなに辛いものなのだろうか。こんなの私だけではないの。でも、いやしかし。
ゴロンゴロン
疑心暗鬼になってしまった私の頭の中を、また大きくなった石が転がっていく。
冊子に書かれていた、鉄分が比較的多く摂取できるとされる食物を摂りはじめた。だが、しばらくたっても改善した実感はない。また、不安の石が転がりそうになるのを必死で食い止めながら過ごす。バスの中で、日課のSNSを流し見していた時、ある画像が目に飛び込んできた。それは、福岡天狼院書店さんの新刊案内の投稿。その中のある本のタイトルに釘付けになる。
「『マンガでわかる ココロの不調回復 食べてうつぬけ 鉄欠乏女子(テケジョ)を救え!』? テケジョって何だ?」
スマートフォンで、そのキーワードと著者の名前を検索する。すぐにヒットした。
鉄欠乏性の女子、略して「テケジョ」。
著者の奥平智之さんは、精神科であり、栄養医学で治療アプローチをするエキスパート。栄養不足などにより、心身に不調を訴える現代女性たちにスポットをあて、食事療法や不調のメカニズムをわかりやすく解説した著書が人気なのだという。その本は、それの漫画版のようだ。
思わず、スマートフォンを握りしめる。この本を読めば、もしかしたら私も救われるかもしれない。ヒントだけでも得られるかも。翌日、その本を買いに福岡天狼院書店に、よろよろしながら駆け込んだ。
「ココロの病気の多くには食べ物が影響しているのです」
うつ病などの心療的病気のサインが現れる時、実は体内の栄養バランスの乱れが大きく関係しているのだそう。
本の中では、簡単なチェックシートで、自分に何が足りないのかを教えてくれる。
・むくみやすい、疲労感があるなど →たんぱく質不足の可能性
・足がつりやすい、下痢や便秘をしやすいなど →マグネシウム不足の可能性
・かぜをひきやすい、やる気が出ないなど →亜鉛不足の可能性
身に覚えのあることばかりで、つい眉間にシワを寄せ、唸ってしまう。足りないものだらけではないか、私。
一番ドキッとしたのは、「避けたい・控えたい食品一覧」だった。
「え、カフェインって、慢性疲労の原因にもなるの!?」
私は、紅茶とコーヒーが大好きだ。カフェインの取り過ぎが体に良くないことだと知りつつも飲んでいた。特に、週末。平日の疲労でぼんやりとした頭をシャキッとできないかと思い、一日に3杯以上は飲んでいた。しかも濃い目に。まさか、それが逆効果だったとは。
本の後半には、「テケジョ」である女性たちと男性の、症例を漫画で紹介している。うつ病や統合失調、さまざまな症状をうったえる患者さんたち。
それぞれ、症状は異なるが、みんな、自分の心身の不調に苦しんで、悩み、先生に助けを求めた。一人で抱え込んで、誰にも相談できずに、自分の心を追い込んでしまっていた。
同じだ。苦しんでいる人が他にもいるんだ。私、一人じゃないんだ。
視界が滲んで、ページをめくる手が震えた。
あとがきには、「みんなで力をあわせて」の見出し。
毎年約1万人の方が心身の不調で自殺していること。奥平先生は、精神医学に栄養医学的視点を取り入れた治療を、広く広めていきたいという熱い思いを持っていらっしゃること。そのためには、国の政策や指針をも変えていく必要があること。それを実現するためには、医療従事者だけでなく、私たち患者や周りの方の力も必要であること。そして、最後に、こう締めくくられる。
「精神疾患で苦しむ人や自殺者を一人でも減らすために、周りのかたに、食や栄養の大切さを広めていただければと思います。力を貸してください。いっしょに頑張りましょう。」
私は、涙をポロポロと零しながら、しっかりとうなずいた。
「はい、頑張ります!」
あれから数ヶ月。随分と体が軽くなった。
朝は少し眠いけれど、早起きして、大好きだった喫茶店のモーニング食べ歩きへ出かけることができるようになった。抜け殻のように、部屋でうずくまることはなくなり、夜もぐっすり眠れている。色々なことに挑戦する気力も戻り、まるで羽化して生まれ変わったように清々しい。
実践したのは、鉄分を多く含む食事を摂ること、ストレッチや運動をすることなど。
少し辛かったのは、カフェインを控えること。
週末の紅茶、コーヒーのガブ飲みを止めた。その代わり、決まり事を作った。それは、「週末の1日1杯だけ、すてきな喫茶店または家で、質の良いとっておきをゆっくり楽しむ」こと。たった1杯。ゆっくりじっくりと味わう。居心地の良い空間で、心身共にリラックスした状態で飲む。まさに至福の時間だ。それだけで、紅茶、コーヒーや空間が格別においしく感じるから不思議だ。
以前より、とても健康的で、すばらしい時間を楽しむことができるようになった。
私と同じ症状の人が、同じ療法で100%回復するとは言えないかもしれない。
だが、本を開いた瞬間、奥平先生は、私の転がる石を受け止めてくださったのだ。やさしく、希望にあふれる言葉を添えて笑顔で。
次は、私が、大きくて重い石を心に抱えて苦しむ人々に、手を差し伸べられたら。
笑顔で前を向きたい「テケジョ」の方々に、奥平先生の著作を、心からおすすめしたい。
□ライターズプロフィール
緒方 愛実(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
福岡県出身。アルバイト時代を含め様々な職業を経てフォトライターに至る。HSP(高感受性・敏感気質)の「テケジョ」。趣味の喫茶店でのモーニング巡りを楽しみつつ、肉体改造にも朗らかに挑戦中。
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