週刊READING LIFE vol.90

コーヒーの香りと三十一文字は、あいつの記憶を連れてくる《週刊 READING LIFE Vol,90 今、この作家が面白い》


記事:青野 まみこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
 
 
実は、短歌を作ることが好きだ。
文を書くことも好きだけど、短歌をじっくり詠むことも好きだったりする。
俳句だと字数が足りなくて表しきれない。文章だと時に散漫になる。
短歌の五七五七七の文字数の制約の中で、たまにだけど余韻を残す言葉を、下手ながらも時々綴ってみたくなるのだ。
ただし、短歌を作るのに私はとても時間がかかる。
どうも、ひらめきが遅い。
だから短歌を軽々と作れる人はそれだけで尊敬に値する。
さらに、短歌と文の両方が書ける人なんて、私の中では飛びっきりハイパーな人なのだ。

 

 

 

今、どの作家が面白いか?
数多くの作家の中で、真っ先に思い浮かんだのは東直子さん。
先に挙げた、数少ない「短歌と文の両方が書ける人」だ。
 
最初に彼女の作品に出会ったのは、10年以上も前のことだった。
FMで、彼女の著書である『とりつくしま』(2007年、筑摩書房)について紹介していた。それを聴いて「この本は、絶対に買おう」と、書店に向かって単行本を購入したことを覚えている。
ラジオの紹介文を聴いただけで買いに行ってしまった『とりつくしま』。
その中の「想い」の表現の仕方がとてもいいと思ったのだ。
自分がもし死んだとして、自分がこだわっている人、好きな人がよく使うもの、ずっと周りに置いているであろうもの、毎日取り出して使うもの、そういうモノに取り付きたい。そして、その人を見守っていたい。もしそんなことができたなら、人はどうするだろう。
どうしても忘れられないのなら、その人のそばにある「もの」に取り憑いて、ずっと見守っていればいいじゃない?
その嫉妬深さ、往生際の悪さがまるで自分のことのようで、一気に引き込まれた本だ。
 
「忘れる」ことは、簡単にできることとできないことがある。
大抵のことは深く思わないので通り過ぎてゆく、しかしたくさんのことを忘れたのに、ふとしたきっかけでまざまざと蘇ってくる出来事がある。
よくよく拭いてすっかり綺麗になったと思ったのに、どうしても取れない染みを見つけた時のように。
思い残すくらいなら、最初から出会わなければ良かった。
忘れた方がいいのに、どうしても去ってくれない出来事があった時、人はどうすればいいのだろうか。

 

 

 

昔付き合っていた男は、不思議な存在感があった。
自分もかなり不遇な目に遭っているはずなのに、どういう訳かいつも彼は弱者の味方だった。
リストラされた人の話を聞き、金銭的に困窮している人の話を聞き、相談に乗って欲しいと言われたらすぐに飛んで行く。自分のことは顧みず、いつでも困ったときは声をかけてと言っていた。
その人がいるだけで、その人のアイデアを聞くだけで、すごく安心するような人物。
彼にアドバイスをもらったからと言って、全ての問題が解決する訳じゃない。そうじゃないけど、いてくれるだけでいい。
そんなやつだった。
私は多分彼のそんなところに惹かれたのだと思う。
 
発想の突飛さが、普通の人とはまるで違う。常識なんじゃないかと思うことが、彼の解釈では真逆のこともあった。
社会通念上、絶対と思われていることで心を病んでいる人、苦しんでいる人はたくさんいる。その頃は私も随分仕事のことで悩んでいたので、よく相談に乗ってもらった。その度に彼はこう言っていた。
「普通ならそう考えるのかもしれないけど、もしかしたら、常識の方が間違っているかもしれないよね?」と。
こうあるべし、ということで苦しむくらいなら、そこから離れた方がいい。相談するといつもそんな答えだった。そして思い切って退職すると、あんなに苦しんでいた体調不良が治った。
彼は「なるようになるさ」ということをよく言っていた。実際、何度も転職して苦境を見てきた人だけど、その分逆境を跳ね返す術を知っていた。
そして、誰をも虜にするようなユーモアと話術を身につけていた。酒が好きで、飲み過ぎなんじゃない? ってくらい酒が強くて、でもそのおかげで多くの人とコミュニケーションができ、どんなに苦労してもどこからか救いの手が差し伸べられていた。
強い人だ。私はそう思った。
 
そんな彼だけに、SNSでも多くの交流を持っていた。
一体何人「友達」がいるのだろう?
「これだけの人、全部覚えてる?」と訊いたことがある。
「いや、全部は覚えきれてないね」
「でしょうね」
「でも何かあったら絶対思い出せるよ」
力強く、彼は言った。
そして困った人がいると地方でもどこでも飛んでいき、仕事をコラボしたり、ボランティアをしたり、とにかく自分のことよりも人のことを優先していた。
 
自分のことよりも人のことを優先する。
そんな人を好きになった私がいけないのだけど、私と会う時間がだんだん少なくなって行くことに気がついてはいた。
たぶん彼にとっては、今は誰かと付き合うよりも多くの人のことを助けたい気持ちの方が強いんだ。そう言い聞かせてた時、SNSに投稿があった。
新しい事業を立ち上げました、という投稿の端に写っていた女性のことを私は見逃さなかった。
そういうことか。
そういうことなんだ。
それも、仕方がない。
好き、という気持ちに制限がかけられない以上、誰も止める権利もない。それは私も彼も同じことなのだから。
そんな投稿を目にして、私の方も他のことで忙しくなり、彼と会うことはだんだん減っていった。自然に任せてもいいと思ったからだ。
 
最後に彼と会ったのは、カフェだった。
彼は面白いことに猫舌だった。あんなに大柄で、大抵の人が一目置くような感じの人が猫舌だなんて。
コーヒーを頼むと決まって彼はこう言った。
「ちょっと待ってて。今飲めないから」
コーヒーが冷める間、彼は面白い話をいつもしてくれていた。夢中で喋っているうちに、すっかりコーヒーは適温を過ぎてしまっているのがオチだった。
 
こうしていろいろ考えていると、また思い出した。
彼が買ってくれた、マグカップが捨てられないでいる。
その時カフェに置いてあって、「これ可愛い」と言っていたら、
「じゃあ、買ってあげようか」と、その場で買ってくれたものだ。
年月も経っているし、使ううちに傷もついてきてるので捨ててもいいのだけど、あの時買ってもらったものだ。なんとなく、捨てられない。
 
 
       熱々のブラックコーヒー留め置く間猫舌の貴方饒舌になる
 
 
捨てられないものと、忘れられない思い出は、どこか似ている。
捨ててもいいんだけど、捨ててしまったらさらに思い出が薄くなりそうなことが、怖いのかもしれない。

 

 

 

好きな人、自分が気になる人、その人をずっと見つめていたい。
いつまでも側にいられればいいけど、そうではない運命の人であることの方が実は多い。
その人と関連があるモノに執着しているうちは、俗にいう「成仏できない」状態なんだと思う。死んでいても、生きていても。
人間なんだから、綺麗事だけじゃ生きられない。汚くたっていいじゃないか? いつもいつも聖人君子に振舞うなんて、そんなことできやしない。
綺麗に生きられない、それでもいいんだよというメッセージを、『とりつくしま』からは受け取れるような気がするのだ。
 
東直子さんの文章は、どこまでもシンプルで、美しく、無駄がない。
往生際の悪いこと、かっこ悪いことでも、東さんにかかれば途端にスッキリとした表現になる。それが素晴らしいのだ。
そして彼女の短歌も、相変わらず上手い。現実と夢想を適度に織り交ぜて、日常と非日常のバランスが取れた歌を、さらりと出してくる。
「天は二物を与えず」どころか、三物も四物もお持ちの東さんの文章の、私は一生のファンであることだろう。
一体どうしたら、文章と短歌が両立できるのか、伺えるものならお伺いしてみたいものだ。
こうして書いていると、最近サボっていた短歌作りを少しずつ復活してみたくなった。今日がそのスタートになるといいのだけど。
 
 
       熱々の濃いマンデリンやり過ごし原稿書きのお伴に連れる
 
 
 
 

□ライターズプロフィール
青野 まみこ(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

天狼院ライターズ倶楽部所属。
東京生まれ東京育ち。3度の飯より映画が好き。
フルタイム勤務、団体職員兼主婦業のかたわら、劇場鑑賞した映画は15年間で2500本。
パン作り歴17年、講師資格を持つ。2020年3月より天狼院ライターズ倶楽部に参加。
好きなことは、街歩き、お花見、お昼寝、80年代洋楽鑑賞、大都市、自由、寛容。

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2020-08-03 | Posted in 週刊READING LIFE vol.90

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